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航空歴史館

1945年9月の横田基地 陸軍百式司偵と剣 

 剣のその後

提供John Treiber 阿部政男

@ キ-46 三菱100式司令部偵察機


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拡大 (ローマ字を判読してください)

2011/01/11 かつおさんから

 上段の文字は【SYRACUSE(シラキュース)のようです。地図で見るとオンタリオ湖右端直ぐ下の都市名です。下の文字は研究所のような意味ではないでしょうか。

2011/01/13 櫻井 隆さんから

 Robert C Mikesh Broken Wings of The Samuraiによりますと、1945年10月29日、陸軍航空審査部の片倉少佐が操縦して福生から追浜へ向かう際の記念とのことです。この100式司偵は、排気タービン装備のW型でした。なお、機首の文字は、SAYONARA TROPHY だそうです。(佐伯注 : 機首文字は、SAYONARAとは読めませんで、SYRACUSEが 正しいのではないでしょうか。)

 


A ベースオペレーション前のキ-115剣

 YOKOTA AIR BASEの名称は占領1年後に決められました。剣が置かれている場所は今はウエルカム庭園になっています。





提供:杉山弘一 (上と同時期か)

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2 福生飛行場の剣の思い出  中里 重雄

2012/06/16 福生飛行場の剣の思い出  中里 重雄

サイトをいつも 興味深く拝見しています。

 キ115について、昭和20年当時に福生陸軍航空審査部に配備された時に目撃しています。

 昭和20年3月下旬頃のある日、自宅縁先にいると、頭上を通過して南へ飛ぶ単発機、脚の型からして戦闘機とは思えないし、捕獲機か何かであろうと想像しました。

 数日後 基地の兵隊に聞くと 特攻機であるということでした。

 その後 時折 飛行はしており、5月下旬頃のある日の午後 脚無しで頭上を飛行している緑色のキー115に気付いて直ぐ走って行って集落の火の見櫓に登り、胴体着陸するのを待ちました。(小生の集落は基地に近いため、立ち木は電柱より高くしてはならないとされていましたから)。

 やがて 着陸態勢に入り、6〜70m先のほぼ目線近い所を飛び、少し機首をあげて機尾のそり?で芝生を擂り土煙をあげながら走行し、ぼーと土煙をあげて停止しまし、待ち受けていた整備兵が駆け寄るのが見えました。

  数日後、無塗装の機体が同じ様に胴体着陸をするのを目撃しています。

 以降 艦載機やP−51の攻撃を避けるため、エプロンにはダミーの飛行機をならべ、実機は付近の林などに隠したので、正確なことは判りませんが、終戦時福生にはキー115は2機以上あった事は確かです。

 

昭和37年酣燈社刊「回想の陸軍機」の記述の一部

 審査の状況は、キ115甲の基本審査が20年3月中旬より6月上旬まで行われた。その結果は離着陸性不良、優秀な操縦者でなければ運用困難と判定され、終戦時まで実用の見込みはなかった。構造簡単なばかりか、脚は緩衝装置がなくて離陸後投下して着陸のことは考えないという徹底ぶりであったので、審査に当たったパイロットはたいへんだった。脚の投下試験をして胴体着陸をしたこともある。

 

 

3 剣の写真から横田基地の姿を探る      


   写真提供:杉山弘一   文:2007/01/28佐伯邦昭

 

 
 占領下の米軍横田基地に展示してあった日本陸軍特攻機キ115剣の正面写真です。
 特攻という日本人の精神構造をさらけ出したいのか、あるいは単なる戦利品として日本軍用機の一断面を示す意図なのかはわかりませんが、ロータリーへ目立つように展示されており、当時の日本人は複雑な感情を抱いたことでしょう。

 それはともかくとして、この1枚から1945〜1950年頃の米軍基地の姿がいろいろと想像できます。剣と飛燕も何度か展示場所を変えられているようです。兵舎の火災によることもあったそうですが、飛燕(或る戦闘機(飛燕)の戦後史)の展示場所も参考にしながら推理してみました。

結論
1 場所は、ベースオペレーションへ向う大通りの西側交差点内のロータリー
2 時期は、1946年晩秋から1947年春先までの間の撮影

クローズアップ 1

 左主翼側にある施設案内板を判読してみます。

BASE SUPPLY 

補給関係か?

**** BASEBALL STADIUM ?

 

野球場

BASE OPERATIONS

管制塔 旧福生飛行場ピット

(不明)

 

(不明)

 

CHAPEL & LOUNGE 

教会 ラウンジ?

 日本文字の縦書きの看板もありますが、判読不能です。

 奥に見えるHOME・SITEMAP OF THE ATTACKERSは 基地野球チームのHOME・SITEMAP・サイトマップグランドであることを示しています。野球場は、ニューギニアのラバウルで戦死したレイモンド H ウィルキンス少佐に因んで1957年にWILKINS PARKと名付けられたということです。

クローズアップ 2

 

 右主翼側にある施設案内板を判読してみます。

POST EXCHANGE

PX 酒保

OFFICERS AHUB

将校クラブ

THEATRE & GYM

映画館 ジム

(不明)

 

MOTOR POOL

駐車場

BASE LIBRARY

基地図書館

DISPENSARY

薬局

COMMISSARY

軽食、売店

 その左に見える立て札と機首正面の機体解説板は、残念ながら判読できません。

展示場所について

 1947年の航空写真には、ロータリーが東西二つ写っています。しかし、その中に剣の姿はなく木造2階建て兵舎の南側に置かれています。従って、ロータリーに展示されていた時期はこれより前か以後かのどちらかになります。(その推理は後述)

 どちらのロータリーかというと、HOME・SITEMAP OF THE ATTACKERSとの位置関係からみて西側のロータリーであると断定できます。現在、51thFIWマークのノースアメリカンF-86Fが展示されている所です。
 

1947/11/14撮影の空中写真  TRON (国土地理院許可済み 文字書き入れは佐伯 )

このロータリーへの展示時期について

 剣の背景に写っている樹木の中に葉を落としている落葉樹が見えます。それから推定して、この写真は冬場もしくはその前後に撮られたものでしょう。
 素顔の横田基地に、米軍接収(1945/09/06)の1年後あたりから建設ラッシュが始まったと書いてあります。福生飛行場時代の建物を残しながら野球場を含めて諸施設を建設し、区画道路も整備されて1947年11月の空撮にみえるような姿になっています。

 剣は、その時に新設された西側ロータリーへ展示されたのではないかと推察します。特攻専用機という特殊な航空機を、このように派手に顕示する意図というものは、建設ラッシュ時のような何か高揚した気分を反映しているように思えるからです。

 落ち着いて検討するならば、格上の飛燕をロータリーに展示してやるという意見が出ても不思議ではありませんし、そのような状況から、短期間のうちに木造兵舎の方へ移す、つまり特別扱いをやめてしまったと考えるのが自然です。

 よって、この写真の撮影時期は1946年11月晩秋から1947年春先までの間であると推定します。

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4 その後の剣


1953年12月 日本航空協会に引き渡され、日比谷公園の航空五十周年記念大会に展示 AH-1953aより

航空情報1954年2月号80ページ


 上記展示会後に三鷹の運輸省運輸技術研究所の1階倉庫に保管され、そこから各地の展示会へ
貸し出され、為に、この写真のような状態になって都立航空工業高等学校へ持ち込まれたものと思われます。A3618-1より 


1965年頃の状態 A3618-1より


 1983年8月 埼玉県桶川飛行場で行われた空のフェスティバル会場に展示A3346-3より 


 1989(平成元)年8月ごろの東京新聞に、中島飛行機武蔵野工場で生産に当たっていた十時啓介さんが呼びかけて『剣復元の会』を結成したとの記事があります。

 その後については不明です。

 
 以後、約20年経過していますが、国立科学博物館のつくば倉庫に現物が保管してあるという情報があるのみです。
A3606-1より 

 本物件の所有者は、日本航空協会から独立行政法人国立科学博物館に移っているものと推定されます。(日本航空協会航空遺産継承基金の事業報告には、飛燕を知覧平和特攻会館に引き続き貸出したという記事はありますが、剣の記載は見当たりません。)

番 外

 陸上自衛隊八尾駐屯地広報展示室の写真ですが、剣はハミルトン定速3枚ペラを装着しているというのが定説なので、このプロペラが本当に剣のものかどうかは疑わしいです。AH-1917a参照

撮影GUNDAMZAK