○ 続 松井屋酒造資料館 サルムソン2A-2の図面について
松井屋のご主人のお話では、1994年4月から復元を進めていたサルムソン復元友の会の久富真事務局長らが20数回訪れて実測調査をしたそうで、図面はその時に置いていったものだそうです。従って、松井屋には、実物と照合するための支柱図、昇降舵図及び全体図しかないものと思われます。
次に、かかみがはら航空宇宙科学博物館・支援ボランティアの小山さんが、水嶋英治著「航空博物館とは何か? 所沢発祥記念館設計ノート」(1993年星林社刊)の中に土井武夫さんが所沢航空発祥記念館へ提供した資料の一覧を見つけてくれました。その中に
(1) 乙式一型偵察機圖 全体 大正14年1月 陸軍航空部
(2) 乙式一型偵察機圖 全体 1/20 大正14年2月7日
があります。それが松井屋のものと同じかどうかはわかりません。
● 所沢は各務原へ土井武夫さんの史資料を返してやるべきでは 佐伯の主張 T52参照
なお、土井さんが所沢へ提供した資料は上記のものを含めて川崎造船航空機部〜川崎航空機での大量の図面等があるようです。
土井さんのお宅に眠っていた資料を明るみに出したのは、所沢航空発祥記念館の開設準備を進めていた人たちであり、相当熱心に接触して寄贈を受けたようです。ボロボロになっていた紙資料を京都の専門業者に託して修復するなどした関係者の功績は高く評価されなければなりません。
素人考えに過ぎませんが、本来なら、それは岐阜県の方々がなすべきことでした。その頃にかかみがはら航空宇宙博物館の構想が生まれていれば、土井さんは埼玉県へ送らなかったかもしれません。
所沢での保管にケチをつける気は毛頭ありませんが、今後とも各務原で製造された航空機の科学技術歴史を解明していくためには、可能な限りの史資料を里帰りさせることが肝要なのではないでしょうか。そこから人材も生まれてくると思います。もっとも、各務原にそういう熱意があって、所沢がセクト主義を捨てればの話しですけど。
因みに、所沢航空発祥記念館の開館は1993(平成5)年4月、かかみがはら航空宇宙博物館は1996(平成8)年3月、土井さんが亡くなったのは1996(平成8)年12月です。
● 続 所沢は土井武夫さんの史資料を各務原へ返してやるべきでは
併せて、知覧は飛燕戦闘機を各務原へ返してやるべきでは
昨日の佐伯の主張を続けます。所沢の記念館も各務原の博物館もその設立趣旨には地域性が強くうたわれています。わが土地から日本の航空なり航空産業なりが羽ばたいたのであると。
さすれば、土地にゆかりのある航空産業遺産はその土地の博物館へ納めるのが最もふさわしいこと言を俟
(ま)たないでしょう。
年に何回かは、異国の地にある古い文化財がしかるべき国へ返還されるというニュースが流れます。
かかみがはら航空宇宙科学博物館について、それをいうと
胸が痛くなる人もいると思いますが、敢えて言いいましょう。
日本に1機しかない飛燕の実物を知覧から取り戻すべきです。
日本航空協会が永く岐阜基地に保管を委託し、各地の航空博などに巡回していたものを、少飛会の要請で知覧市へ貸し出され、以後22年経つのに返される気配がありません。知覧特攻平和祈念館において陸軍特攻機の象徴として展示されていることに意義がないわけではありませんが、特攻機は飛燕に限ったことではなく、日本に1機しかない飛燕の実物なら生まれ故郷の各務原にあってこそより大きな意義があると言わなければならないでしょう。
(少飛会:陸軍少年飛行兵出身者の全国組織 平成16年に解散)
かかみがはら航空宇宙科学博物館には、「土井武夫コーナー」があって土井技師のテーブルや設計用具などが展示してあったと思いますが、土井技師の畢生(ひっせい)の大作は何といっても飛燕戦闘機です。その飛燕の紹介が小さな模型とタイヤやエンジンの小部品というのが、見る者をひどく落胆させるのです。
そういう意味で、昨日書いたように、所沢航空発祥記念館へ提供してしまった川崎造船航空機部〜川崎航空機で
の大量の図面等も、本来の場所に納めるのが至当であること、これまた言を俟ちません。
かかみがはら航空宇宙科学博物館は、何をしとるのやと言いたくなりますが、こういうねじれ国会みたいな現象は各務原に限ったことではありません。
呉市が、零戦と一緒に買わされた重爆撃機呑龍の中島ハ-109発動機ほかの重要な産業遺産が(多分)倉庫に眠ったままという例もあります。
この3月に、所沢の中島九一式戦闘機のガランドウ胴体が日本航空協会の重要航空産業遺産の認定を受けました。羽田に保管してあるYS-11の量産初号機と共にです。それに文句は言いませんが、次の機会には、中島の寿系をひく空冷星型14気筒のエンジンがラチェ電気式定速フルフェザリングの3翔プロペラを付けて新品同様な姿で残っている
中島ハ-109発動機にも目を向けて貰いたいものです。
文部科学省やら独立行政法人やら財団法人やら自治体やら第三セクターやら、いろいろと組織団体がありますので、素人には、何がどういう基準で運ばれていくのかはさっぱりわかりません。せめて、セクト主義を排して、物があるべき所に納められて、鑑賞にも研究にも便利なように絶えず見直しを進めて貰えたらなあと思うのであります。
● 続々 所沢は土井武夫さんの史資料を各務原へ返してやるべきでは について
@ かかみがはら航空宇宙科学博物館・支援ボランティアの小山さんの意見
松井屋酒造のサルムソン図面について、「サルムソン復元友の会」に関わっておられた方から情報が得られました。これらの図面は、サルムソン復元友の会に寄贈された「飛行機工術教程」の抜粋コピーに間違いないそうです。この資料は現在は、かかみがはら航空宇宙科学博物館のウェルカムハウス(土井コーナー)のガラスケース内に保管・展示中です。
知覧の飛燕や、所沢の土井コレクションを各務原へ里帰りさせるのは私の夢でもありますが、現状の博物館の運営体制を考えると、「まかせてくれ」とはとても言えないのが悲しいです。今の市側の姿勢が、博物館運営や航空史研究にポジティブに変わってくれることを願うばかりです。(それでも、今年は屋外展示のUS-1Aの再塗装が行われます。)
各地に現存するキ−61「飛燕」のリスト
http://koyama-s.la.coocan.jp/KASM_volunteer/
・ アメリカ(作業はオーストラリア)で復元中の飛燕の技術支援依頼が川崎重工宛にされたことがきっかけとなって、現在、川崎重工社内の有志が集まり、社内に散在・忘れ去られていた戦前戦中の川崎航空機の図面や資料を整理する作業にとりかかっています。
http://www.fighterfactory.com/restoration/kawasaki-ki-61-hien.php
A 航空史の片隅 陸軍愛国号献納機調査報告・制作者の横川裕一さんの意見
ホームページ http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html
所沢航空発祥記念館がそういう資料を所有しているとは知りませんでした。館内には展示されていないと思います。
自論になりますが、資料はどこが保管していても構いません。肝心なことは、利活用できるかどうかです。所沢にあっても知らない以上、活用も利用もできません。
所沢の格納庫には、いくつか興味深い資料がありますが、恐らく収蔵品リストも整理・公開されていないのではないでしょうか。
資料をスキャンしてWebに公開しろといいたいところですが、所沢も県立ゆえ、財政的に苦しいようです。CD-ROMに入れて、販売するなりしてくれれば、買う人もいるのでしょうに・・・。 せめて、収蔵品リストくらい公開してくれれば、Webページへのアクセスは、現状のただのパンフレットより、数倍増えるでしょう。
資料の利活用という面では、アジア歴史資料センターは、素晴らしい環境と思っています。個人が所有する写真や資料も、こういうところで収集・公開すれば、調査・研究も広がるのにと、いつも思っています。
B 佐伯から : 博物館ボランティア及びマニアサイトでの研究者として活躍中のお二人からのご意見に感謝します。確かに、自治体財政の苦しい中で博物館行政に多くを望むのは無理でしょうし、館員はその中でよく頑張っているといえるのでしょう。
小山さんが紹介している飛燕復元中のFighter
Factoryという団体は、現役航空機の整備事業や整備学校を経営している会社の一部門のようですが、米英の公的博物館や民間団体と我が国の現状を比較するとき、その物凄いへだたりにがく然としてしまいます。
横川さんが言われるように、博物館そのものが収蔵する物品のリストがあるのかないのか、あっても公開できないのか(自信がないのか)、というような現状では、航空産業遺産について調べる手がかりの初期段階で壁に突き当たります。無力感に襲われますね。
だからといって、主張を引っ込めてはいけないと思います。491番が多少毒舌気味であることは承知の上です。誰かが言い続けなければいけないのです。我田引水になりますが、航空史探検博物館は、すくなくとも日本国内における航空遺産の所在について、写真という証拠を付けてのリストづくりに大いに貢献していると思っています。横川さんのホームページもしかりですし、小山さんのホームページは博物館のあり方を動態紹介されている点でたいへん貴重なものです。
なお、たまたまですが、所沢航空発祥記念館の公式ホームページがここ数日の間に一新されました。開館以来の格調高いレベルで、或る程度専門的な解説も加えられていたのが、どういう訳かキッズ向けみたいな内容になってしまいました。ヒコーキオタクだけが相手じゃない、もっと一般を掘り起こすのだというお考えのように見えます。航空博物館を遊園地並みに考える館長が就任されたのでしょう。きっと。
学芸員の居所が無くならないように祈ります。