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図書室52 水嶋英治著 
航空博物館とは何か?
所沢航空発祥記念館設計ノート
 掲載2010/07/08 

書評  佐伯邦昭

 書名 航空博物館とは何か?
          
所沢航空発祥記念館設計ノート
 著者 水嶋英治
     所沢航空発祥記念館展示主任設計者
     所沢航空発祥記念館建設プロジェクトリーダー

 体裁 20×25cm 317ページ 

 発行 1993年8月17日 

 発行 有限会社星林社

 定価 4000円

・ ずしりと重い
 O.C.C.さんから、よかったらこの本を寄贈するとの申し出があり、航空史探検博物館にも何か参考になることがあるだろうと気楽な気持ちで送ってくださいとご厚意を受けました。 しかし、手に取ってみると厚さ20ミリ、1キログラムの重量とその重み以上に広範多肢の内容に圧倒されまして、概略を読み終えるのに1か月かかりました。

 17年前に出版されたので、多くの方が読んでおられるかと思いますが、その後、日本において航空博物館とは何か?に対する答えができているのかどうかは知りません。多分、17年前と同じ状態ではないかなというのが読後感であります。その意味で、きわめて今日的なテーマの本ではないかと思います。

・ あら筋 公刊文書とは趣を異にする
 所沢航空発祥記念館設計ノートという副題がついているように、所沢航空発祥記念館の計画から開館までの行動を克明にノートし、それに事後の感想を加えて、系統的に整理したのが、本書の あら筋です。
埼玉県から業務を委託された範囲内という制約の中で、最善のものを作り出していこうとした歩みが裏と表から赤裸々に見えてきますので、例えば公刊の建設記録のような無味乾燥なものとは趣を異にします。

 帯に、航空ファン・航空関係者には読み物として、博物館専門家には博物館設計論として読まれると参考になるに違いないと当時の館長が推薦の言葉を書いています。

 私は、もちろん航空ファンの立場で読みました。よって、著者が常に問いかけている『航空博物館とは何か?』という難しいテーマよりも、数年前に館を訪問した時の記憶をたどり航空史探検博物館所載の現状を参考にしながら、興味のある部分を重点的に読んだことをはじめに断っておきます。以下目次の順にそって主観を述べます。
 


・ 第1章

 所沢の米軍基地が日本に返還され、その土地が臨時軍用気球研究会による日本最初の飛行場であることに因んで、県は航空公園として整備し、更にその中に航空博物館を建設することになり、基本設計を受託した日本科学技術振興財団の一員として、著者が建設プロジェクトリーダーになります。その際の著者の意気込みは日本一の航空博物館を造ろうというものでした。

 その意気込みのもとで、主体的あるいは情報持ち込みによる受動的に展示品取得のために研究し、かつ行動することになりますが、、必ずしも理想通りには動かないのが世の常であります。以下、随所にその挫折がでてきます。


・ 第2章 


・ 第3章

∇ 木村秀政コレクション
 木村秀政博士も生前、所沢航空発祥記念館建設を応援していたといわれ、遺族から文献資料を埼玉県に寄付され、約700点を水嶋氏がデータ化して「木村文庫」として整理してあるそうです。同時に贈られたと思われる航空計器や模型が格納庫と称する収蔵庫に保管されていますが、入館者が常時見ることができないのは、どう言い訳をするのでしょうか。A-3304参照

 その点は、ミルMi-8PA、KV-107、H-13、F-86D、火星エンジンと思われる残骸、フォッカーV[、スパッドS-XVなども、どういう位置づけでお蔵入りにされているのか、本書では全く触れられていません。航空ファンの立場としては、そこの説明を聞きたいのです。

 なお、木村秀政コレクションの引き取りを、はじめは拒んでいた日大が、所沢へ寄贈と決まった途端に欲しがりだしたというエピソードも、よくある類いの話です。

∇ 喜多川写真館の写真
 有名な喜多川写真館の所沢コレクションが所沢航空発祥記念館に納まったのは当然と言えば当然です。しかも、この貴重な写真原版が公けに保存されることは、占領軍の追及から守り続けた喜多川さんも喜んでいることでしょう。我々もうれしいです。

∇ 土井コレクション
 土井コレクションの66機分、約100枚の図面も土井武夫さんからの申し出で所沢航空発祥記念館へ納まりました。その申し出が1991年だそうで、その時には各務原市に航空博物館の動きがなかったのでしょうか、多分、後で知った関係者は土井さんを随分恨んだことでしょう。個人的には、埼玉県は、土井コレクションをかかみがはら航空宇宙科学館の方へ移管してやるべきだと思います。A4415参照

∇ 村岡元陸将補走る
 第6節の村岡英夫先生というのは、隼戦闘隊長で陸上自衛隊では第一ヘリコプター団司令を陸将補で退官した人らしいですが、この本の随所に名が出てきます。所沢航空発祥記念館の最大の特徴である木更津からの陸自機の収集は、この人の尽力によるもののようです。

・ 第4章

 次章の零戦をはじめとしてたくさんの機体をリストアップし、実際に貸与や購入に動いても。結果としては、所有者の意志や交渉のタイミングや予算の制約から、実機の展示は村岡氏が集めてきた自衛隊機中心になってしまいました。「自衛隊機ばかり」という陰口に対して、水嶋さんは「自衛隊機は用途廃止後は鉄くずになるのだから、その批判は間違いである」と反論していますが、陸上自衛隊機を中心に集める意図が なかった以上、こじ付けと言っておきましょう。

 その自衛隊機について、埼玉県の上層部が世論を気にするあまり、日の丸を塗りつぶしたりしたそうですが、これには、「資料はありのままの姿で保存するのが原則である。土器の色が気に食わないと言って塗り替えたりするであろうか、自衛隊機だからと言ってありのままを保存することをしないのだろうか」と反論しています。これは同感です。展示物にイデオロギーを持ち込む愚だけは避けるべきです。

・ 第5章

 グアムから返還されて航空自衛隊が各地で展示し、浜松に保管していた零戦を所沢航空発祥記念館が特に熱心に貸与の交渉をしていたことを初めて知りました。日本で初めての飛行場に軍用機を飛ばした所沢としては、完全な姿で残る軍用名機は何としてでも欲しかったでしょう。

 しかし、そのためには、主翼付け根ほか博物館展示にふさわしい修復を施さなければならず、シアトル航空博物館に見積らせたりしていますが、結局沙汰やみになります。十分な準備期間がなく、予算の制約も有る中での折衝は涙ぐましいばかりです。そして、所詮、日本では学術レベルの修復は無理と思い知らされます。

 琵琶湖引揚の零戦にも食指を伸ばしたみたいですが、嵐山美術館が白浜へ売ってしまい、その後、呉市が事もあろうに所沢の名もない町工場で非学術的修復をさせました。また、残骸から九一式戦闘機を復元しようとした日大の先生の企ても半ばで挫折しています。これらを水嶋氏はどう見ているでしょうか。是非とも聞いてみたいです。

・ 第6章


・ 第7章


 博物館というところは、実物大模型をつくるのがお好きなようで、成田[二宮玉虫型、アンリファルマン機]、各務原「サルムソン2A2」、石川「二宮玉虫型」、青森「航研機」、そして所沢には「会式一号機、ニューポール81型E2」があります。

 航空発祥にこだわる地元の人たちの間では、目玉展示としてアンリファルマン復元を推す声があり、国産機の会式一号を推す人との間で綱引きが行われた挙句、会式一号機に決まり、エントランスホールの頭の上に吊ってあります。その図面の作成や製作も一筋縄ではいかなかったようです。

 それらを復元する際に不明点の解明や新発見など学術効果があることは認めますが、展示後に大和ミュージアムの戦艦大和のように人寄せパンダとして絶大な効果があるかというと、航空機の場合はよほどマニアックな人しか興味を示さないのではないでしょうか。
 実物大模型に莫大なお金をかけるよりも、手ごろな大きさの模型展示にしておいて、退役する官民の中小型機を仕入れる方が、よほど効果があるように思うのです。

 特に、著者は青森の「航研機」を手掛けた張本人ですが、展示されてしまえば、実機であるYS-11の圧倒的な存在感の陰になってしまっている感無きにしもあらずで、どうも費用対効果に疑問が残ります。「T15 書 評 幻の名機再び -航研機復元に挑んだ2000日-」参照


・ 第8章

 これも、紆余曲折の末、埼玉県の片田舎のお寺に保管してあったニューポール81型E2のエンジンを貰い受け、機体レプリカをアメリカで制作してしてもらうまでの苦労話です。大正15年に民間飛行士の岩田正夫氏が軍払い下げ機を、操縦しやすいように改造を加えているので、正しい形式の復元とは言い難いようであり、日本科学技術振興財団というのは、何が財源かしりませんが、ものすごくお金を持っているのだなあという印象しか残りません。

・ 第9章


・ 第10章 

 博物館内で目で見ることのできる実機、発動機や部品、図書などは氷山の一角にすぎず、観客が見られないところに図面や取扱説明書などをはじめとする大量の史資料が収蔵されているはずです。それらは、コンピューターによってデータ化が行われているのでしょうが、日本の航空博物館のホームページで公開しているところはありません。

 各館が協力してデータの標準化を行い、簡単な手続きで検索できるようにしておくべきと思うのですが、この本を読む限りでは、まだ学者の研究論文の段階に過ぎないようです。17年たちましたが、少しは進んでいるのでしょうか。

・ 第11章


・ 第12章


・ 第13章 


 映像シアターやシミュレータは、限られた時間に実機の展示を詳細に見て回りたい航空ファンにとっては、二の次のテーマに過ぎません。同じような意味で、天井に吊り下げられている機体は、近くで細部を見ることができませんので、適当に写真をとってお終いということが多いです。

 多くの展示品を見せたい館側にしてみれば天井空間を使わない手はないということですが、重量物を建築物の中に吊り下げるためにスミソニアン方式での厳重な強度計算と慎重な施工が求められる割には、観覧者にはあまり歓迎されないのではないでしょうか。

 飛行機は空中を飛ぶものだからという反論があるとすれば、館内の空間でエンジンを停止している物体に飛行しているという概念を持たせるのは無理だと言っておきましょう。

・ 第13章


・ 第14章 

∇ 格納庫
 格納庫と呼ばれる収蔵庫は、単なる倉庫ではないことを強調していますが、前述のとおり、本館展示に匹敵する物件がありますので、春秋2回だけの公開で、後は見せないという管理に非常に疑問を感じます。

∇ 記念館、離陸せず
 「自衛隊機ばかり」との陰口が本気になって、開館まじかになって日の丸と陸上自衛隊の文字がペンキで塗りつぶされる、木更津からの運搬を無償で手伝うなど協力してきた自衛隊のメンツが丸つぶれになる事件が起こりました。

 水嶋さんは、「ちょうどその時、国旗とは日の丸を指すと理解できるという初めての司法判断を沖縄地裁が示し、これによって、黙らなければならない人が黙ったようだった」と書いています。よって、所沢航空発祥記念館は1993年4月3日、関係者全員のうれし涙と共に一般公開の離陸を迎えたのであります。

・ 第16章


・ 第17章 


∇ ミューゼアリゼイション
 ミューゼアリゼイションとは、個人の所有するコレクションを公開し、公共財として位置付けるソフト面と、博物館を建設するというハード面を意味する用語だそうです。

 翻ってわがインターネット航空雑誌ヒコーキ雲・航空史探検博物館がまさにミューゼアリゼイションの範疇に入っていると思うのです。ディスプレイ画面のみでの公開ですが、世界中の誰でもがいつでも自由に入館して全てを観ることができるという特質は、建物の博物館がいくら電子化されても及ぶものではないでしょう。

 その特質を理解する皆さんから所有するコレクションがどんどん集まるならば、ミューゼアリゼイションがますます深まるだろうと思うのです。

・ 終 章


 所沢基地が米軍から返還された翌1972年に地元住民によって所沢航空資料調査収集する会が発足し、所沢を日本航空発祥の地として確立するために活動を開始し、実際、所沢航空発祥記念館建設推進の原動力にもなり、資料の多くもこの会から寄贈されています。

 実が伴えばそこに圧力も発生するわけで、「所沢」と「航空発祥」の二文字が館の名に入ったのは彼らの力でした。素直に、日本航空史を紐解くならば、航空発祥は明らかに東京代々木練兵場ですから、私は所沢航空発祥記念館という館名には、所沢市民もしくはダサイタマと卑下されていた埼玉県民の東京都へのコンプレックスを感じます。

 一歩譲って所沢を航空発祥とするならば、所沢陸軍航空発祥記念館の方がまだ分かりやすいですし、世界の航空史を一堂で見せたいと欲張るのなら単に所沢航空博物館のほうが賢いし、他県の者にもわかりやすいですね。
 英語表記はTokorozawa Aviation Museumです。そこに発祥の英語がないじゃないかと所沢航空資料調査収集する会がかみついてきたそうです。これらについて横浜生まれの水嶋さんは、間接的ながら批判的に紹介しています。


 さて、同じ埼玉県の航空自衛隊入間基地には、教育講堂(旧修武台記念館)の開館が近づいています。公式ホームページによりますと、展示のコンセプトは、空の始まりから旧軍時代、駐留米軍、航空自衛隊へと空の歴史の移り変わりをたどるというものです。主な展示品はアンリ・ファルマン機を始め、桜花、零式、鍾馗戦闘機のエンジンや空自のF−1戦闘機、各種エンジン並びに各種関連する史料(資料)等の展示を予定とあります。

 自衛隊機が展示の柱になっている所沢航空発祥記念館と大同小異の感なきにしもあらずです。

 この際、所沢航空発祥記念館は、陸自機を陸上自衛隊に返還して独自の史料館を作らせ、県内における軍事航空は入間基地教育講堂にまかせ、広く、ライト兄弟以降の航空史を勉強させる航空博物館に衣替えしては如何なものかと提案いたします。所沢をあくまで航空発祥の地としたいのなら、特別コーナーを設けて大いに宣伝しておけばいいではありませんか。
 


 最後に、日本一の博物館をつくろうとした水嶋さんの努力は報われたのかということについて。

 努力は、あるところでは報われました。しかし、圧力、金、偏見、時間、裏切りなどで阻害され、また、公共団体たる県の制約下で涙をのむ場面も多々ありました。
 当初意図した構想とはかけ離れた博物館ができたとまでは言いませんが、彼の意志が完遂されたとは言い難く、その心の空隙を埋めようとしたのが本書の執筆動機であったろうと推察します。航空博物館建設のイロハを手取り足取り盛り込んでいることにより、この本そのもが水嶋航空博物館になっているのであります。

 

 なお、所沢には航空公園の中にカーチスC-46D、駅前にYS-11が展示されています。これらがどういう事情でそこに置かれることになったのか、記念館とは所管が違うのか一切説明がないのが、残る不満の一つです。