B 1954年9月12日〜17日 第2回航空日記念全日本滑空機競技大会 滑空
世界の航空機 1954年11月号
9月12日競技開始日の午後から雨が降り出し、台風も重なって順延が繰り返され、予選を突破した選手による中級、高級の決勝戦は5日後になりました。気象条件の良くない時節に行ったこと、短い滑走路で十分な滑空が行えなかったこと等で、ずさんな行事であったとかなり非難されています。
大会期間中と推定される写真 ヘリコプターはベル47D-1 JA7005 読売105号 撮影J-BAAI
C 1952年10月18日 よみうりタチヒ号命名式 命
立飛R-52JA3017の経歴
1949/11 |
新立川航空機株式会社設立 |
1952/09/30 |
完成 c/n1 立飛R-52 航空再開後の国産第1号機 |
1952/10/18 |
読売飛行場で命名式
読売新聞社 よみうりタチヒ号 全日本学生航空連盟第1号 |
1953/01/29 |
JA3017登録 定置場読売玉川飛行場 (上記の年月日との相違については不明) |
1953/05/31 |
耐空証明書交付 |
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発動機を神風からコンチネンタルE-185に換装 |
1959/08/03 |
多摩川弁天橋付近に不時着水大破 |
1959/08/03 |
抹消登録 |
鳳文書林1954年12月発行 日本航空機全集1954年版
感想 H.F.生
何時も大変興味深く拝見しています。「玉川読売飛行場の思い出」の写真に思わず唸りました。
我が青春の思い出の地だったからです。学生航空連盟(通称読売学連又はヨミガク)は日本学生航空連盟(通称朝日学連)さんの学校(の航空部)単位の加盟に対し、個人で加入できたので大学に航空部の無かった私は読売学連に入って、昭和34年の始め頃から卒業まで在籍していました。
正確な記憶に自信がありませんが、まだR-52はエンジン換装前で星型の「神風」がエンジンカウルも無しだったと思います。当時の教官のお1人はそのR-52で学生パイロットとして戦後初めて日本一周をした方で、今でも後進の指導に当って居られます。
格納庫はエプロンのある前側が社機の入った飛行機の格納庫、後ろが我々が使っていたグライダー用格納庫で、H-22が2機、H-23が1機入っていたと思います。
H-23はA型と称するもので、後年それを改造したのが下の和やなべさん撮影の機体でH-23Bと称したと思います。私は卒業と同時に東京を離れたので、その後の詳細は判りませんが、玉川飛行場の閉鎖に伴い読売大利根滑空場(埼玉県加須市)に移転して活動を継続しており、来月2月26日に創立60周年を迎えると云うことです。
大変懐かしい写真や記事を拝見し嬉しく思いましたので一言私事の思い出を書かせていただきました
D 1958年3月15日撮影 195
セスナ195 JA3001の経歴
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セスナ195 c/n7297 N11B CATから読売新聞社が購入 |
1952/08/22 |
JA3001登録 読売新聞社 愛称よみうり101号 定置場東京国際空港 |
1966/08/23 |
抹消登録 |
撮影1958/03/15 セスナ195 JA3001 読売新聞社 福井正夫
胴体表示 YOMIURI SHINBUN 101
TOP
E 1959年4月3日撮影 R52
コンチネンタルE-185時代 撮影1959/04/03 立飛R-52 JA3017 福井正夫
以下拡大
飛行場事務所
燃料庫の前
TOP
F 1964年撮影 KH4
私が高校の頃の読売飛行場は、柵などもなく、飛んでいなければ滑走路への立ち入り自由で、学校仲間が集まってバイクで滑走路を思う存分走り回ったことがあります。家が近かったものでよく写真撮影に行っていました。バロンやツインボナンザが取材飛行から戻ると撮影済フィルムとおぼしきものを投下し、待機していたKH-4がそれを拾って都心の新聞社まで運んでいくという場面がよく見られました。(渡辺孝義)
・ ビーチクラフトC-50 JA5022 読売新聞社
ビーチクラフトC-50 ツインボナンザ JA5022の経歴
1955/11 |
ロールアウト c/nCH349 |
1956/05/09 |
JA登録
読売新聞社 定置場玉川読売飛行場 |
1970/05/20 |
抹消登録 解体 |
玉川飛行場格納庫 撮影日不明 提供JAHS
・ 川崎ベル47G-3/KH-4
JA7377の経歴
1963/10/23 |
c/n2017
読売新聞社 定置場読売玉川飛行場 |
1972/04/11 |
定置場東京国際空港 |
1977/09/12 |
トーメン 日本ヘリコプターサービス 定置場武蔵航空加須基地 |
1980/06/01 |
大分県で事故 |
1980/10/22 |
抹消登録 |
撮影1964/06/28 KH-4 JA7377 渡辺孝義
河川敷の滑走路から離れた道路沿い野川の脇にあった格納庫。奥に見えるもう一つの格納庫にはグライダーが入っていたと記憶しています。
撮影1964/10/11 KH-4 JA7377 渡辺孝義
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・ 萩原式H-23-A3
萩原式H-23 JA2018の経歴
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萩原木材工業 萩原式H-23A3 c/n10 |
1956/01/29 |
JA登録 読売新聞社 愛称報知号 定置場玉川讀賣飛行場 |
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学生航空連盟 定置場読売大利根滑空場 |
1970/05/28 |
抹消登録 |
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河口湖自動車博物館 |
撮影1964/10/11 萩原式 H-23-A3 JA2018 読売新聞社 報知号
渡辺孝義
土手のバック
中央に見える二階建ての建物が事務所 その左側に格納庫がある
滑走路近くで着陸を撮ったら、スピードが速くて尾翼が入らなかった
同じく萩原式 JA2018 読売新聞社 報知号
撮影時期不明 HSC-M
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・ 萩原式H-22A-3
JA2184の経歴
1962/07/20 |
c/n59 読売新聞社 |
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学生航空連盟 定置場読売大利根滑空場 |
撮影1964/10/11 萩原式H-22A-3 JA0184 読売新聞社社 第2報知号 渡辺孝義
グライダーの離陸はウィンチによって行われており、外されたワイヤーが空から目の前に落ちてきて、かなり危険な状態でしたが、皆平然と見ていました、今では考えられないようなことです。
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