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第2回航空日中央大会 第2回があるのなら、第1回もありますよね
はい、東京国際空港のBランに内外の展示機を並べて、米軍、自衛隊、民間が派手なページェントを繰り広げ5万人の観衆を魅了したのが1953年9月20日の復活第1回航空日東京大会でした。その模様はいずれ写真で見る東京国際空港の歴史に発表したいと思っていますが、まずは、立飛R-HMや読売Y-1が展示された第2回から紹介します。
今となってはR-HMなど国産機の展示に惹きつけられるのですが、場所が米軍管理の月島飛行場という当時としては場末に当たる不便な土地で、ショーの内容も乏しく、おまけにグライダーの墜落事故まであって、第1回とは様変わりの航空日行事になったようです。
雑誌を見ると、世界の航空機は好意的に書いていますが、航空情報のBという人の記事は八つ当たり気味です。
曰く、またソアラ―が事故をやってしまった。人気をなくすこと大。救急車不要の航空ショーを来年やりたいもの。
曰く、フレッチャーFD-25B(JA3092)は低空飛行のみで藤沢へ御帰還、観衆ガッカリ。
曰く、展示機の前にはどれもこれも要目性能が書かれてあったのみ、全く不親切極まりない。
曰く、滑走路端でエンジンを吹かして観衆を砂塵のうちに入れた某新聞社機、人間を何と考えているのか。
曰く、航空日のショーの模様を伝えた新聞があったか? 淋しい限りだ。
曰く、場所は不便な月島飛行場、ウイークデーに人が集まらない、展示館など月島に作る必要があるのか。
(注 展示館は子どもの航空絵画など1週間展示)
といった具合で、玉川の第1回滑空選手権大会の失敗とともに、日本航空協会はよほどこたえたものと見えて、翌年の第3回航空日中央大会は三越本店の展覧会に切り替えてしまいました。もっとも、この年の5月には、米三軍統合記念日を兼ねて新ターミナルビル完成の東京国際空港まつりが挙行されていたからでもありましょうが、何とか航空思想の普及を図りたいと復活日本の空の試行錯誤に奔走していたご苦労が偲ばれます。
因みに、他の1954年の第2回航空日行事では、多摩川オリンピア競技場で小中学生による模型飛行機競技会東京大会が行われ、大阪大丸デパートでは、羽田整備場地区格納庫群の金属製模型の前に1/70スケールの現用輸送機を並べた展示会が開かれています。
ついでに、1954年の同じ時期の英国ファーンボロ航空ショーでは、ハンターやミーティアの最新型に加えてコメットV型、バイカウント、バルカン、キャンベラ、ガネット、ジェットプロボストなどが登場していました。