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航空人生録・論文 掲載21/11/21

  

 故 森脇医師 遺稿                                                                                                              

「名古屋空港/小牧基地」の写真記録について 丹羽 八十


 

「名古屋空港/小牧基地」の写真記録について
  民間機その3  国内エアーライン編


目次

1, 周辺状況

2,  民間機
    その1 森脇さんが捉えた民間籍ヘリコプター紹介
         レシプロエンジンヘリコプター
         タービンエンジンヘリコプター
 
   その2 民間固定翼機
         単発民間機
         双発民間機
   その3 国内エアライン 〜当ページ〜
    

3,外国籍民間機

4,外国籍軍用機


その3 国内エアライン編

 
昭和60〜70年にかけては使用機材のジェット化と航空各社の再編成が進んだ時代だった。そんな中名古屋空港へは新旧の機体達が飛来してくれていた。ここでは飛来当時のエアライン別に紹介していく。

JA5046, DH104-5A「藤田航空」は後に全日空と合併していくが、オリジナルの塗装を残しての飛来だった。


「日東航空」が運用していたJA5117, G-73は不定期に名古屋⇔南紀白浜、志摩、串本路線を運航していた。後に日本国内航空と合併していく。


山陽方面での運用力点だった「東亜航空」JA5007, DH104-1Bが名古屋まで飛来した目的は撮影日付から導入予定の YS-11に絡んでと推測する。


地元、中日本航空が全日空への資本参加をし、定期航空路線へ乗り出していった手始めに使用した機材、JA5023, DH104-5A「わかばと」を運用していた。


全日空から譲り受けたJA5050, DC-3Aを使って北陸方面への路線に運用していた。


JA5053, CV440-88は斬新な飛行機が現れた印象が強かった。W-1誘導路でのF-104Jとのコラボは地元では良く見られた風景だった。


全日空が運用していた2機とも中日本航空が押し付けられた感がし、この外装での使用期間は短かった。JA5055, CV440-88


伊勢志摩、南紀方面での観光路線を背負っていたJA5063, G-21Aは可愛い存在だった。


中日本航空と全日空のダブルネームを背負って運用していたJA5072, DC-3Aは撮影びからするとJA5050より前から飛ばしていた事が判る。



JA5069, CV 240-14は元々、北日本航空で運用していた。合併して日本国内航空になった64年4月以降の撮影であるが、オリジナルの塗装を残している。


日東航空の運航路線へ引き続き投入していた水上飛行艇が各種見られた名古屋空港だった。まずはJA5057, G-73。


2機めはJA5090, G-73。



3機めはJA5106, G-73。



JA6160, DH114-1Bは名古屋を起点にした路線を持たず、飛来目的はやはり新規導入予定のYS-11絡みで日本航空機製造、MHIプラントを訪れたと推測する。


YS-11についてはまとめて後述するとして、日本国内航空機として飛来した記録の最後はJA8315, B.727-88で、導入2か月後の撮影から慣熟飛行に飛来していた時期と思われる。


JA8030, CV-880-22Mも導入後すぐに名古屋へ飛来し、撮影をされている。訓練飛行場を持たなかった時代、当地は恰好の場を提供していた時代だった。


続いて、乗員訓練機から路線投入機まで含めて日本航空の飛来機を紹介します。
日本航空と表記したJA5103, Beechcraft D-18S「つばめ」を撮影していた森脇さんに感謝。この翌年には伊藤忠航空整備へ移管されており、貴重な記録となった。


日本航空の塗装をしたJA5114, Beechcraft 65も名古屋空港への航法訓練に使用されていた65年から数回撮影記録が残っている。

 


次にJALが訓練機として採用したのがJA5143, Beechcraft H-18他で67年〜72年撮影されている。機番違いを以下に示す。 JA5143











ラインに投入されていた現行機も度々飛来し、離着陸訓練を繰り返していった。まずはレシプロ機から。
DC-6Bは3機補足されている。JA6203, JA6207, JA6210。この内JA6210はハイブリット塗装だ。
JA6303, DC-7CF 「City of Los Angels」も飛来していった。

  JA6207

  JA6210


ジェット化1号機JA8001, DC-8-32をはじめ飛来していった。その機番別画像を以下に示す。

  JA8007

  JA8005

  JA8002

  JA8009

  JA8011

  JA8031

  JA8016

  JA8018


初期型の-31から-62までが撮影されていた。
   JA8021

  JA8024

  JA8022

  JA8021


JA8021, CV-880-22Mも導入後頻繁に飛来し、離着陸を繰り返していた。機番違いを以下に示す。
  JA8027

  JA8028


Boeing 727-46も飛行訓練に飛来してきた。
  JA8307

  JA8310

  JA8311

  JA8310

  JA8318

  JA8320

  JA8325



全日空
レシプロ輸送機時代

名古屋からの路線投入は無かったので訓練飛行での飛来と思われる。
JA6154, DH 114-1B 元々は藤田航空の登録機だった。


68年11月に英国へ売却される前の整備試験飛行の飛来ではないかと推測するJA6161, DH 114-1B。


新幹線が開業する前、JA5025, DC-3Cは名古屋と羽田の路線で運航されていた。


全日空の機材近代化手始めに採用したJA5053, CV-440-88はエプロンでの動きに見とれた思い出がある。


乗員訓練機として採用したJA5152, PA-31は初期には白一色だったが、後に蛍光カラーを追加した。記録画像から同型別機番を以下に示す。

  JA5156


ほぼ同時期にJA5167, Beechcraft H-18も訓練機として運用していた全日空の意図は何だったのか?


導入したフレンドシップは毎日見る事が出来たが、森脇さんはあまり熱心に撮っていなかった。JA8635, F-27-200の他、オリジナル塗装機の機番違いを以下に示す。

  JA8637

  JA8631


モヒカン塗装に変わったら気に入ったのか多くの機番違いが記録されている。
  JA8602

  JA8607

  JA8619

  JA8630


そしてターボプロップ真打のバイカウント機が登場する。
JA8201, V. Viscount 828は4発エンジンの持つ迫力と新鮮さで空港ビルでの見物者が絶えなかった。機番違いを以下に示す。

JA8210

JA8208

JA8205

JA8203


第2の活躍の場を与えられたがJAレジのまま飛行してたのも記録されている。
JA8201はPK-MVTへ
JA8205はPK-MVSへ
JA8208はHC-ASPとなっていく

JA8205

JA8208


待望のジェット旅客機が登城し、訓練飛来が始まった。
1番機JA8301, B.727-81は長い滑走路を生かした離発着訓練を繰り返し、
2番機JA8302は「空港祭」に飛来した。これが見納めとなった。

  JA8302

  JA8306




69.6.16.初飛来のJA8401, B.737-281多くの空港関係者が見守った。

 

 JA8403

  JA8406

  JA8407


ここまでが森脇さん撮影の国内航空会社記録です。


  外国籍軍用機へ続く

  フィルム提供者  : 森脇比佐
  参考使用フィルム  : Fuji Neopan SS
   使用フィルムスキャナー  : Nikon Super Coolscan 5000
  使用画像ソフト     : Adobe Photoshop

  編集者      : 丹羽八十 /  Yaso Niwa, President & Chief Planning Officer
                   Nagoya Aviation Historical Society

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