航空情報1959年の各冊などからノースアメリカンT-6/SNJの写真を追加しました。
これで 空自は180機中106機 59パーセントの収録
海自は52機中23機 44パーセントの収録 となりました。
海自SNJに関連して大石治生さんから、とても参考になる情報を頂いています。
1962年に日活が公開した石原裕次郎の「零戦黒雲一家」に鹿屋のSNJが零戦に扮し、You
Tube「最後の丸木舟(零戦黒雲一家より)・種子島名所」http://www.youtube.com/watch?v=S4D5QaRYGSc
で見ることができます。SNJ零戦だけではなく、P2V-7が米軍爆撃機に扮して南洋の島に見立てた徳之島に低空から爆弾を落とすシーンなど、第201教育航空隊などが大活躍をしているのです。
その中の一人岡崎拓生さん(光人社NF文庫:翔べ海上自衛隊航空学生などの著者)が「平和と安全ネットワーク」の中でSNJで教育を受けた模様を詳しく書いています。
http://www.jpsn.org/essay/msdf/318/
http://www.jpsn.org/essay/msdf/3160/
1960年頃の海上自衛隊操縦学生は、まず、航空自衛隊小月基地で空自の学生と一緒にビーチクラフトT-34メンターで基礎操縦課程前期を受け、鹿屋の後期課程でSNJを使用していたとのことです。
小月基地
(航空自衛隊の第1操縦学校分校→第11飛行教育団)が1964年に海上自衛隊に移管され、海自単独の学校になりますが、その頃の鹿屋の後期課程でやはりSNJを使っていたのかどうか不明です。
岡崎さんも書いていますが、前輪式のメンターに馴れた体で尾輪式のテキサンに移るのは教育段階としては面白くないことですし、対潜哨戒機やヘリコプターのパイロットになるためには、前席・後席の縦列よりも、富士KM-2以降で採用されたように教官と横並びの方が都合がいいわけですから
、SNJは敬遠気味だったのではないかと想像します。
もっとも、サイド バイ サイドだと教官の拳骨が出やすくて、下手な学生は大変です。テキサンでは後席から手が届かない代わりに操縦桿を大きく動かして学生の太ももを叩いていたそうです。
・ 今や、
いっぱひとからげで体罰がいけないという主張が日本全土を覆っていますが、大東亜戦争帰りの気の荒い教官の暴力と暴力的叱声のお蔭で落第せずに済んだ航空学生もたくさんいたことでしょう。
・ 空に上がれば、地獄は紙一重の世界。悠長な言葉など通用しない場面が数あると思うのですが、近年はどうなんでしょうかねえ。