人吉市錦町青年会館での記者発表風景(2014/02/23)
海軍艦上攻撃機「流星」風防について
一 資料の価値
この風防は、愛知艦上攻撃機「流星(B7)」の風防完成品である。流星の機体部品としては国内で唯一の資料
であり、戦中後半の航空工業技術を伝える重要な産業遺産である。国外ではスミソニアン博物館に1機が分解保管中のものがあるだけである。
二 入手の経緯
@ この風防は、三陽航機株式会社八代工場の関係者Y氏宅(八代市・故人)で、戦後長く保管されていたものである。
A 現所有者は八代市在住O氏で、2008年2月17日にY氏より譲り受けられたものである。当時のO氏メモによれば、譲渡時には既に第4パーツは欠損しており、所在は不明である。移管時から第1風防部の天窓部のアクリル及び左側有機ガラスの割れが確認できる。
B 2011年11月、O氏より熊本産業遺産研究会前会表の松本晉一氏に本件の公開・活用が依頼された。その後2013年9月より熊本の戦争遺跡研究会谷が調査に加わり、14年1月よりは人吉球磨戦跡ネットが報道発表等の支援を行い本日に至る。
三 流星(B7)について
@ 艦上攻撃機「流星」は、太平洋戦争末期に登場した大日本帝国海軍の艦上攻撃機である。昭和16年、海軍より愛知航空機株式会社に対し、艦上攻撃機と艦上爆撃機の両機種統合案による試作機作成が命じられた。機体略称は、十六試艦攻試製「流星」B7A1、試製「流星改」B7A2、試製「流星改一」B7A3。連合国によるコードネームはGRACE。
A 外見上は中翼単葉、逆ガルタイプ翼、全金属製応力外皮構造、二重スロッテッド・フラップ及び効力板(スポイラー)装備、翼端部は上方内側折りたたみ式、油圧式内側引っ込み脚である。乗員は操縦員と後部乗員(通信・航行・旋回銃手)の2名である。
B 流星の部隊配備は遅かったが、第三航空艦隊の攻撃第五飛行隊(木更津海軍航空基地)など、流星を主力とした部隊が編成され、関東防衛の作戦に参加した。また敗戦当日、房総半島沖の空母ヨークタウンに第七御盾隊第四次流星隊2機による特別攻撃を行い、海軍公式記録上「最後の特攻」となった。
C 量産型の生産は1944年4月から行われたが、「誉」発動機の不調や熟練工の不足などの悪条件に加えて、爆撃と1944年12月7日に発生した東南海地震による工場の被災もあり、生産は遅々として進まなかった。生産拠点の分散のため、大村の第二一海軍航空廠での転換生産も行われていたが、やはり生産速度は上がらず敗戦を迎えた。最終的な生産機数は試作機9機、愛知製82機、二十一航空廠製21機を含めた112機である。
D 戦後、アメリカ軍によって4機が接収され、そのうちの1機はスミソニアン航空博物館ガーバー施設にて分解状態で保管されている。
以上『日本航空辞典』『日本陸海軍航空機ハンドブック』から抜粋
四 第21海軍航空廠について
@ 長崎県大村市の国道34号線から西側、大村湾に面する一帯は古くから放虎原(ほうこばる)と呼ばれた原野で、1664年に大村藩士千葉卜枕がここを開拓して豊かな農地とした。航空機の大増産を迫られた日本海軍が、手狭な佐世保海軍工廠航空機部にかわる工場用地としてこの土地こ目を付け、昭和16年10月1日に第二一海軍航空廠を開設した。面積約217 万平方メートル、建物180棟、人員は最終的に学徒男女8千人を含め約3万人、当初は零式観測機及びこれらの発動機を、後半期は紫電改、流星改を生産した。
A 昭和19年10月25日、成都から飛来したB−29、78機による爆撃及びその後の艦載機による攻撃で壊滅的な被害を受け、分散疎開を開始するも敗戦となる。
B 流星の起工式は1,944年1月8日に行われ、第二次拡張工事も完成した第二組立工場(二万四百九十平米)内で生産された。本航空廠での流星の生産数は21機である。
以上『回想第21海軍航空廠』、『第21海軍航空廠の記録』他から
五 三陽航機株式会社八代工場について
@ 本工場は、熊本市春竹町八王子にあった「三陽航機株式会社(取締役社長:野田卯三郎、専務取締役:木下、取締役:古荘信一、監査役:岡田米記)」の八代工場である。所在地は、八代市井上町91番地ほかである。
A 本工場では、1943(昭和18)年4月頃に開設され、海軍練習機の胴体後半部、B7(流星)の風防を生産していた。記録では、昭和18年4月「三陽航機株式会社、八代に青年学校開設」、昭和19年3月11日「挺進隊壮行会(三陽航機・興国人絹・浅野セメント・昭和農産加工)」が見られる。会社報・記念誌等は確認できていない。
B 証言 (当時二期養成工出身:検査掛)によると、当時工場内では、この生産風防の機種を“B7”と呼んでいた。風防の部材は春竹本社から板状のもので来ており、工場で「“板材のカット”“曲げ”“焼き入れ”“穴開け”“鋲打ち”“組み立て”“塗装”の工程で製品に仕上げていた。出来上がった製品は、本社に鉄道で送っていた。
六 今後のこと
本発表後も当面は松本晋一が保管し、展示等での依頼があれば原則、随時貸出等を行い、国内で広く公開する。発表後、暫くの間は、人吉・球磨地域での航空遺産・戦争遺産の啓発活動として、航空技術での学びや平和教育等の利活用を進め、学校単位とした児童生徒への見学等にも人吉球磨戦跡ネット・松本・谷で対応していきたい。
将来的には、展示・修復等を含め「航空遺産・戦争遺産」として国内の展示施設等への常設展示を視野に入れた「寄託・寄贈」を検討したい。
以上
産業考古学会評議員 熊本産業遺産研究会前代表 松本晉一
熊本の戦争遺跡研究会理事 肥後考古学会幹事
玉名荒尾の戦争遺跡をつたえるネットワーク事務局長 谷和生
人吉・球磨の戦争遺跡を伝えるネットワーク代表
山下完二