戦後史2 1946年 オーストラリア空軍のレーダーサイト
(1) Mr. Ken W Roseの証言
吉島埋立地に一時オーストラリア空軍が駐留しました。Mr. Ken
W Roseの証言によりますと、その概要は次のとおりです。
1 名称 |
RAAF 111 Mobile Fighter Control Unit |
2 運用 |
レーダーサイト
4坪ほどの小屋を建てて迎撃管制レーダー(No 165 Ground Control Intercept Radar)を設置しました。ただし本格運用は行っていません。 |
3 隊員 |
Keith While 空軍大尉以下20〜25人 レーダーメカニック、無線通信士、運転手、自動車整備士、大工、事務官を含みます。 |
4 日本人従業員 |
約15人 蒸気ボイラー管理、ディーゼル発電機運転、自動車修理、調理、守衛、工夫 |
5 兵舎 |
当初は、レーダー小屋のそばのトレーラーとテントをシェルターや工作場として使用し、要員は岩国や呉から車で通っていました。
本格的なキャンプは、米・豪の占領軍が日本政府と協力して間組に請け負わせてて1947年の夏に建設させました。 |
6 運用期間 |
1946年〜1949年
第二次世界大戦後の東西冷戦の激化、特にソ連によるベルリン封鎖で緊張が高まると、オーストラリア政府は戦争に巻き込まれるのを避けるために、日本駐留部隊の引揚げを決定し、111 Mobile Fighter Control Unit も撤退を命じられました。そのため、1949年の4〜5月までに大部分の隊員がオーストラリアに帰り、レーダーサイトに関するプロジェクトは終了しました。
(一部資料では、1948年12月に呉からシドニーへ帰還し、1949年2月に解散)
結局、レーダーサイト装置は実験運用の一時的なもので、実稼働したことはありませんでした。 |
7 その他 |
飛行場跡には、掩体壕が残っており、その中に鉄製の枠のようなものがあるので、日本人に尋ねたところ、被爆死した人を火葬した跡だということでした。
雇用した日本人労働者の中には、原爆で怪我をした傷の跡が残る人がおり、あの人たちはその後どうしたのかと、ふっと思うことがあります。
現場に至る2本の道路が軟弱で、ぬかるみにはまった自動車を引揚げるために吉島にある広島刑務所から人が派遣されたこともありました。
(注) 部隊が1949年5月までに撤収した後は、ABCC職員の寮になり、1952年に国家公務員共済組合が払下を受けて結核病院とし、以後、吉島病院として現在に至ります。 |
1947年4月14日米軍撮影の航空写真
わずかに見える二つの点を、初期のレーダー小屋とトレーラーと推定しました。キャンプは、この年の夏に建設されるので、残念ながらまだ写っていません。
(2) 西岡誠吾さんの証言
西岡さんは、吉島飛行場の北にあった広島県立工業学校の寄宿舎である吉島寮に4年間(1947/03〜1951/03)入寮し、その間に、キャンプを見聞し、士官との交流もありました。
(ア) キャンプ 作図 西岡さん
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1 全体のイメージ |
戦後の進駐車の兵舎や設備と同じで、建物はカラフルな原色、広い敷地内は草や塵一つ無い清潔感がありました。周囲は金網のフェンスに囲まれ、時折大きな兵士がさつさと歩く風景は、子供心にはとても羨ましく、また敗戦国の惨めさを感じました。 |
2 兵舎 |
兵舎は、図の中央の1棟。屋根は緑色の瓦、壁は板張りの白色ペンキ仕上げ、窓は上下スライド式で外側に網戸付き、出入り口は高く両開き式、床は高く階段付き。 |
3 食堂 |
兵舎の左の建物は食堂とボイラー室と思います。兵舎と同じような仕様。昼下がり、兵±数人が食堂からビールを持ち出し、ラッパ飲みやビールかけをやっていました。
兵舎の北側に保温した配管が設置されており、暖房用の蒸気か温水と思います。当時冷房設備はなかったのか、夏は窓をすべて開けていました。 |
4 その他の建物 |
食堂の上隣は、将校の家族住宅と倉庫。兵舎と同じような仕様。 |
5 車両 |
ジープやトラックが数台。 |
6 フェンス |
金網式のフェンス。 |
7 基地入口 |
番兵と小さな小屋。国旗掲揚のポールは、基地入口か兵舎の南側だったと思います。 |
8 基地敷地 |
綺麗なまさ土で、水はけが良く、雑草もゴミもなく大変清潔な感じ。芝生はあまり見当たりませんでした。
フエンスの外側数メートルも同様に手入れガ行き届いており、日本人労働者がこき使われていました。 |
9 照明 |
室内も屋外も昼間のようにに明るい照明設備が設置されていました。
当時の日本は電力事情が非常に悪く、停電や電圧低下で辛い思いをしていたので、改めて敗戦の惨めさを感じました。
試験勉強の時、フェンスの電灯の傍で勉強したしたこともあります。 |
10 兵士 |
軍事訓練などを見たことはありません。たまに見かけるのは、ジープに乗って飛行場内をパトロールする姿でした。 |
その他 |
キャンプは当時としては立派な建物であり、周囲には兵士相手の夜の女宿もあり、ちょっとした基地の街の様相を呈していました。寄宿舎が停電して勉強ができなくなると明かりのついている基地横へ行ったりしたものです。
私は、将校と知り合いになり、チョコレートや缶詰を貰ったりしましたが、下級兵士は粗雑な野性的な人間が多く、近寄ると危険でした。
周囲は草ぼうぼうの荒地で、夜はアベックの愛の巣であったりでした。
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(イ) レーダー小屋 作図 西岡さん
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1 全体のイメージ |
日本式のの小さな木造の小屋でした。 |
2 建屋 |
瓦吹き屋根、杉板張りの外壁、出入り口や窓は引き戸式、床はコンクリート打。建屋の外2〜3メートルは除草されていますが、それより外側は雑草が高く茂っていました。 但しパトロールに来るジープのコースは建屋入口までは轍ができていました。 |
3 室内 |
窓から見ると、黒っぽい機械(箱形)が設置されおり、室内の照明は常時消えていました。 |
4 その他 |
建屋に近づくと兵士ガ怒るので、危険な雰囲気でした。 |
RAAF 111 Mobile Fighter
Control Unitについて
RAAF 111 Mobile Fighter Control Unitは、戦後、山口県岩国に駐留したBritish Commonwealth Occupation Forceの傘下にあって、1945年12月に山口県防府に司令部を置いたRAAF
No.81 Wing(P-51とモスキートを装備)に属します。
No.81 Wingは翌1946年に、
No. 481 (Maintenance) Squadronと111Mobile Fighter Control Unitが増設され、前者はインフラ施設の復興支援や選挙の監視など民生面のサポートに当たり、後者は、No
305 Early Warning Radar Stations、 No 322 Early Warning Radar Stations又はNo 165 Ground Control Intercept Radarを持ち込んで試験運用を行った模様です。
場所は、鳥取県美保、島根県浜田、山口県須佐(現萩市)、広島市吉島、香川県高松のようです。部隊は1948年12月にシドニーへ帰還し、1949年1月に解散しています。
第111戦闘統制部隊が持ち込んだレーダーサイト装置は、No.
305及びNo.322早期警戒レーダーステーション、No.162迎撃管制レーダーで、1946年9月にシドニーから積み出され、10月4日に岩国へ陸揚げされ、美保、広島、須佐などに置かれたもようです。
No. 111 Mobile Fighter Control
Unitについての参考サイト
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