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航空歴史館

 

広島市西区南観音町

1965年 朝日新聞ボナンザ機の事故

広島市西区三滝町

いしぶみ 三滝寺 春風地蔵尊
    毎年の法要

 

A6404-9 広島市西区 南観音町 朝日新聞ボナンザ機の事故現場
             Plane crashed  Asahi Shimbun Bonanza, Nishi-Ku, Hiroshima City
 

朝日新聞ボナンザ機JA3110の事故
   
1965年 広島航空クラブニュース(HAC-22)より 復刻


1 朝日ボナンザ機の墜落現場を見る   林  隆一郎

 516日日曜日くもり、午前11時すぎ聞きなれないエジン音を耳にした。空港の方を見るとX尾翼のボナンザが旋回していた。何度も旋回するので故障かと思ったりした。(空港のすぐそばの県営グランドで朝日新聞社の体操祭が行なわれていることを忘れて いたので、写真撮影のための旋回だとは気付かなかつた)

 それから.間もなくしてみると一本の黒煙が相当たかい空までのぼり、ボナンザの姿が見えない。消防車のサイレンが通 りすぎた。落ちた!と思った。すぐに自転車を飛ばした。

 バス通りを救急車が走っていった。グランド前をすぎるころから体操祭の人達が空港へ向って急いでいる。てっきり空港内へ落ちたものと思ったら 、その手前の入江(図面参照)に墜落していた。入江の南側から幾重もの人垣のうしろの方からジャンプしてみると焼け残った尾翼がが見える。はじめてみる飛行機の墜落現場に興奮を覚える。近づていくとJA3110がはっきり見える。

 まわりの牡蠣いかだも燃えている。消防士が近くの船に乗って操縦席のあたクをトビロでつついているが即死らしい。担架がおろされたところで北側に行ってみる。

 消防車はいるが、航空局の化学消防車はいない。一番近い所にて、設備も十分整っているのに出動できをいとは…
 両主翼の端も焼けずに残っていた。左翼の朝日のマークと右翼のJA3110が痛々しい。

 正午のテレビニュースが早くも事故の模様を速報した。午後2時ごろ朝日機がつぎつぎにやってきた。まずツインボナンザ(JA5042)、続ぃてセスナ180JA3059)、エアロコマンダー(JA5026)が降りた。
 午後3時ごろもう一度現場へ行ったら、CABの係官や瞥察官が調べていてくわしく見ることはできなかつたが、ほんとうに無惨 な姿であった。夕方遺族をのせたエアロコマンダー680FJA5075)が悲しみをこめて広島空港へ着陸した。

 (筆者は空港から釣15km離れた広島市南観音町に居住、 当時高校生〉


ビーチクラフト H-35 ボナンザ JA3110  春風 撮影1959/03/31 戸田保紀

JA3110の経歴

1958/03/20

c/n C-5183 JA登録 朝日新聞社 定置場東京国際空港

1965/05/16

広島市南観音町で墜落

1965/05/27

抹消登録

 

2 朝日機墜落事故の概要 佐伯邦昭

 1965(昭和40)年5月16日午前1115分ごろ、広島市南観音町の県営陸上競技場て開かれていた日本体操祭広島中央大会を空から取材していたビーチクラフトH35”ボナンザ”JA31
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)は、グランド上空を低空で7回ほど旋回したあと、東南の方向へ向って上昇しょうとして失速し、天 満川入江の牡蠣いかだ上に墜落炎上した。

 この事故で、沢田操縦士、石川整備士、中崎カメラマンの3氏が即死した。 目撃者の話を総合すると、機体は図のようにグランド上空から天満川へ向って飛行しようとしたところ、眼の前に高圧鉄塔がせまったため、急上昇しょうとしたが失速し、上昇姿勢で約60メートルの高さから落ちはじめ、半転しながら機首を下に向けて突込んだようである。

 当時の気象は、快晴、風速南西3mであり、気象上の異常はなかった。地上数拾メートルの超低空を旋回したことは、明らかに航空法規に違反した無暴飛行で、操縦士の過失ではないかという見方もある。

航空法施行規則第174条 (有視界飛行の最低安全高度)
 
 人又は家屋の密集している地域の上空にあっては、当該航空機を中心として水平距離600メートルの範囲内の最も高い障害物の上端から300メートルの高度 

 ただし、大臣の特別の許可を得たものを除くとありますが、この飛行において許可を得ていたのかどうかは不明です。

 

3 関連する思い出 佐伯邦昭

 45年前の広島航空クラブニュースを引っ張り出してみました。地図のイラスト入りで事故を報道していました。
 送電線を避けるために急上昇しようとして失速墜落したのですが、(たまたま、六管のヘリコプターが島伝いの送電線を見落として接触墜落した事故と重なることもあって) 航空歴史館に復刻しました。

 実を言うと、この事故に関連して未だに脳裏から離れない苦い思い出もあるのです。
 その日は、恒例の岩国基地三軍の日で、広島航空クラブの特例早期入場に東京や大阪からのマニアが10人くらい参加しており、ついでなら、広島市内に帰ってからミーティングをやろうじゃないかというので、飲食店に集合して、確か中華料理屋だったと思うのですが、わいわいがやがややりながら飯を食いました。

 そこまではよかったのです、が‥‥
 夕刻のテレビが朝日新聞社機が広島空港そばの入江に墜落炎上したというニュースを流しだし、私は思わず 「しまった!広島空港へ行くべきだった!」と叫んだのでした。3人の犠牲者を出した事故を、単なるマニアの好奇心だけでとらえてしまった佐伯の叫びに対して、冷たい視線が向けられたのは当然です。早朝からの岩国行きやミーティング会場探しなどで疲れ切っていたとはいえ、広島航空クラブの運営と機関誌発行が全国的に認められつつあったことの驕りと慢心が言わしめた若さの言葉でありました。

 そのことが、未だに忘れられないのと、もう一つ、航空情報編集部に入っていた藤田勝啓さんが 「ここの支払は、酣燈社が持ちますから」と全員の飲食代をタダにしてくれたことも、へー、平記者にそんな権限を持たしているのかと驚いたことも併せての記憶です。

 あの頃はマニア目線の小藤田でしたよね。大藤田は藤田俊夫さんのこと、彼も当時はマニア目線の大家でした。

4 追悼 2010/10/13 かかし  3

 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲に昭和40年の「春風」墜落のことが掲載されて、ちょっと驚いています。あの事故のことをまだ記憶されている方がいらっしゃるとは…。

 亡くなられた3人のうちの一人、石川整備士は父の後輩で、私も何度か会っています。石川さんは、父と交替で伊丹勤務となり、その2か月後の事故でしたからショックでした。子どもさんがまだ小さかったはずです。

 できれば3人の方への鎮魂の気持ちを込めて、「春風」の勇姿を掲載していただければと思います。撮影時期、場所とも不明で、ピントも甘いですが、父が撮影した写真だと思いますので 。よろしくお願いします。

 

4 春風地蔵尊 

 この記事を読んだ横須賀市の方から、広島市の三滝寺に慰霊碑(春風地蔵尊)がありますよというお知らせがあり、さっそくお参りに行ってきました。

 碑文にあるように1976年に墜落現場から三滝寺に移され、札所のご婦人によりますと、以後、命日には毎年朝日新聞社の方が見えて丁重な法要をされていたそうです。しかし、何年か前に「もう高齢だから今年を最後にします」とのことで途絶えたそうです。

 地蔵尊は、三滝寺山内の多宝塔の境内にあります。 

 お知らせを受けて、さっそく三滝寺の春風地蔵尊を訪ねました。三滝寺というのは、旧広島市街の北西(広島市西区)の山中にある古刹で、今は、すぐそばまで住宅団地になっており(不肖、2年間西区長をしていてよく知っているはずだったが)、かなり迷ってたどりつきました。

 境内には、無数の原爆や風水害犠牲者の地蔵など石碑がありまして、探していたら陽が暮れてしまうので、まっすぐ本堂の札所まで登って、そこのご婦人に場所を聞きました。朝日新聞の飛行機と言いかけただけで「春風の石碑ですね」と返って きました。場所は市指定文化財の多宝塔(写真)のところで、教えられたとおりすぐにわかりました。

・ 助けてくれたのは仏さんか、天国の3人か
 札所で、朝日の人が毎年法要していたなど由来を丁寧に教えてもらったので、お礼のつもりもあって護摩札(千円)を求めてお金を払おうとしたら、財布を忘れてきている。〇〇証も入れているので無〇〇運転で来たのだ!
 札所のご婦人 「いいですよ、護摩札はちゃんとお供えしておきますから。」と守護米を2袋もくれたのでした。
 佐伯 「ありがとうございます。お金は必ず返しにきますから。」というわけで、お寺に借金をしたまま、神仏のご加護のお蔭で 無〇でも無事帰宅したのでした。

 

 

A6404-9 広島市西区三滝町 三滝寺
      Mitakiji Templ, Nishi-Ku, Hiroshima City
 

◎ いしぶみ 春風地蔵尊

撮影210/10/12 佐伯邦昭
  

毎年の法要  法要

 2013年5月にこのような葉書が来ましたので問い合わせたところ、朝日新聞関係者による法要が途絶えた後も、お寺自体で毎年供養の法要を行ってくださっているとのことでした。(掲載許可済み)

   

 

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