説明板と慰霊碑 撮影2013/03/27 長野県上田千曲高等学校 校長宮坂千文
題字 成澤昌茂
文並書 細川武敏
1930
昭和初年繭糸価格の暴落により農村は忽ち未曾有の困窮状態に陥る
昭和五年政府は失業救済農山漁村臨時対策法を成立せしめ失業者の救済と産業振興の為低利資金の融資を謀る
之により上田市は二万八千六百円の融資を受け千曲川の水害による中之条地籍の荒廃地二十余町歩を開墾すること可決し中之条荒蕪地復旧組合を設立
翌六年三月着工
工事の進捗に伴い此の地は耕作に不適当と判断せられた為 時勢に即応して飛行場にすべしとの議に決する 同年五月東西四百米南北二百米の地均完了
1931
六月一日朝日新聞社定期航空会社所属 東京新潟間の定期航空便の寄航開始祝賀式挙行 式当日飛来機五機 来賓数百 観衆多数
同年東西に各百米の拡張工事を為し秋完成
上田市は中之条荒蕪地復旧組合より飛行場地域を買収市の所有となる この価格四万四千八百四十四円
同年十月十七日市営飛行場開場式挙行 飛来せる陸軍機民間機計十八機 来賓千数百名観衆は万を以て数え空前の盛況を呈する
1932
昭和七年三月離着陸に不安なからしむる為 東西五百米南北九十米に約十糎の盛土を施し六七両月に亙り東西両接続地数十米の地均更に不整形を是正し 格納庫車庫事務室等を建設 設備を完成 陸軍省に献納の儀出願 認可を得る
昭和八年四月三日献納式挙行 参列者五百余名 陸軍上田飛行場と命名せられる 献納の土地面積四万九十二坪建物数量二百二十九坪井戸一ヶ所時価約七万六千円
以後所沢下志津浜松熊谷等の飛行学校 飛行聯隊 逓信省 朝日新聞社その他民間機の利用するところとなり 年間の飛来機数二百乃至三百機に達し 本州中部航空路の重要飛行場となる
1937
特に山岳地方耐寒飛行演習に於て他に比すべきなしとの評を得る やがて世界の軍事情勢緊迫化するや 昭和十二年熊谷陸軍飛行学校上田分教場となり 練習部隊が駐屯 飛行場の拡張工事が急速に進められ 隣接する農耕地の買収が強制され 飛行場の総面積は実に十七万坪に及ぶ
更に九五式練習機が上田上空を訓練飛行し離着陸に支障ありとして鐘紡上田工場の煙突を切り落とす かくして上田分教場は幾多搭乗員を養成 戦況危機に瀕して特攻隊が此の地から飛び立つに至る
1945
昭和二十年八月十三日米軍機来襲 付近住民に犠牲者が出たのは記して銘すべきである
同年八月十五日の敗戦により米軍に接収せられ土地建物は大蔵省の管轄下に入る
1946
昭和二十一年五月上田市は米進駐軍長野軍政部の認可を得 土地建物を借り受け市立高等女学校が移転
1948
同二十三年四月市立高等女学校と市立商工学校を合併せしめ 土地建物約二万坪の払下げを受け 同二十四年四月県立移管 上田千曲高等学校となる
1949
校地以外の土地は逼迫した食糧事情の下一般市民の開墾 上小開拓団の入植問題等一時紛糾したが 地元増反による開拓事業として中之条下之条両地域農家に払下げが決し 昭和二十四年二月一日十万九千七百六十六坪同二十七年三月一日二万三千百二十五坪の払下げとなる 総価格二十三万二千七百余円
又同二十四年最初の県営住宅平屋木造五棟十戸 同三十六年から三十八年平屋二階四階耐火十九棟百戸が建築され同三十四年から三十六年市営住宅平屋木造耐火五十六棟百十五戸の建設を見る
1962
かくして同三十七年一月一日千曲町が中之条から分離独立 その他道路敷一万三千三十坪水路敷四千八十二坪 千曲高校敷地を含め合計十六万八千六百四十六坪の払下げとなる
1930〜1985
思うに昭和五年上田市が目した荒廃地開墾の事業は皮肉にも敗戦によって実現したのである しかしその農地も今や大半が宅地と化し昔日の面影を留めず飛行場建設以来幾変遷を経て既に五十五年今此の地に記念碑を建立銘文を撰し長く後世に伝えんとする