2019年12月30日の1午前11時半からTBSで「報道2019」と言う番組がありました
。私の所に『航空情報』を通じてだと思いますが、突然写真を貸して欲しい、という連絡があ
ったのは8月でした。TBSはかって研修で御世話になったこともありますので、ご恩返しと思って貸し出しました。
1959年の藤沢飛行場への不時着事件の項では、私が撮った何枚かの写真が使われました。 撮影者の名前は入れなくて結構です、といいましたので、放送ではクレジット無しでしたが、私が送った5枚の写真全部が使われましたので十分と思っています。また、昔文通させて頂いた松崎幸治さんのお元気な姿を見られたのはよかったのですね。
航空情報1959年12月号グラビアに掲載された写真
しかし、司会者がなんと左巻きの関口宏ではありませんか。しまった、と思いましたが、まあいいや、今回はご恩返しだ、と目をつぶった次第で
すが、司会はともかく女のコメンテーターがやたら口数が多くて、何で選挙に落ちたこんな女がデカい顔して喋っているのか、とすっかり不愉快になり、藤沢飛行場へのU-2不時着事故まで見てテレビを消しました。
(佐伯も同じ)
U-2とは関係がありませんが、今でも気になっている事がありますので、書き残しておきます。
実はそれとは別にもう60年も前になりますが、19才になったばかりの1959年11月26日木曜日に、この厚木基地で未だに忘れられない出来事がおきます。
前月の10月には15日、22日と二回厚木でU-2の写真が撮れたのですが、11月の初めには宮城県の実家に一旦帰省して、その後青森県の三沢基地に二泊三日の『航空ファン』の取材を行うなどで、厚木基地に出掛けるのは一ヶ月ぶりでした。
この日私は午前中に風向きを考えて、厚木基地の南側、滑走路
01の延長上の少し西側の田圃のあぜ道に腰掛けていました。ところが天気はまあまあなのにさっぱり着陸してくる機体がありません。一機も飛ばないんです。
どうしたんだろ、と思っていたのですが、左側の飛行場から突然「バーン」という大きな音が聞こえてきました。私が座っていたところの近くは木が茂っていて、飛行場の中を見ることが出来ませんが、その代わり基地の警備のガードからも見つからないという立地で、いつもこのあぜ道に座って待っていました。
音だけがすごく大きく聞こえたんですが、その少し後にF8U-1
クルーセイダーが、北側から南に向けて一機離陸してきました。私が座っていたところは飛行場の外ですから、もう機体が高くて写真を撮るには遠すぎたので、ただ目で追うだけでしたが、その後はまた静かになって何も飛びません。
それからどれくらい時間が経ったのかわかりませんが、多分居眠りしてたんですね。突然左側の道路から人の話し声が聞こえたんです。びっくりして顔を向けるとそこには3人の外人がいました。驚いたのなんのって。「あー
つかまる、逃げなきゃ」というのが最初に思い浮かんだ事でした。でももうすぐそこに居るんですから、今更逃げるのは無理です。仕方ないので固まったままその3人の外人を見ていました、
一人は30才くらいの人で、もう二人は20代前半ではないかと思える若い人でした。この三人が私が座っていたあぜ道を歩いてどんどん近づいてくるんですね。先頭を歩いていた外人と目が合ったその瞬間、その外人は「ハーイ」といいながら手を上げて、そのまま私の背中を越えて南の方に行ってしまいました。
「助かった
!」と思うと同時に、直ぐトンズラしようとカメラをしまって、朝来た道を小田急線桜ヶ丘駅に向けて歩き出しました。そしてちょうど滑走路の延長上辺りに来たら、道路に何かが置いてあるのが見えました。近づいていくと「あっ
サイドワインダー!!」と叫びそうになりました。なんと弾頭が無くなったサイドワインダーが一発、道路に立ててあったんです。「あー
さっきの爆発音はサイドワインダーの発射音だったのか」と思いましたが、爆発音は一回しか聞こえなくて、着弾した音は聞こえなかったなあ、と思っていると、直ぐそばの取り入れが終わって、すっかり乾いた田んぼで一人の外人が何かを探していました。
「そうか、サイドワインダーは二発発射されて、一発はここにあるもので、見つからないもう一発をさっきの三人で探しに行ったんだな」と思いました。写真を撮りたかったのですが、直ぐそこに外人さんがいますので、とても勇気は無くて、目で記憶しただけですが、弾頭の部分がないだけで、他はしっかりしていました。
この11月26日の数日後、神田で行われた航空情報友の会の例会でこの事を話しましたら、26日は感謝祭で休日ですよ、といわれました。「感謝祭?
なにそれ!」で当時の私は感謝祭というのを全く知らなかったんです。
アメリカの休日なのか、それじゃ飛ばなくても仕方が無いな、と思いましたが、話しの続きでこのサイドワインダー暴発事件のことを話したのですが、何しろ写真がありませんので、集まっていた『航空情報』友の会のかたがたに信じてもらえたのかどうかはわかりません。
離陸してきたクルーセイダーの音で着弾音が聞こえなかったのか、二機で離陸しようとしたのに一機からサイドワインダーが発射されてしまったので、もう一機は離陸を取りやめたのか、とかいろいろ考えられるのですが、座っていたところからは基地の中が見えませんので、真相は60年経ってもわかりません。
ただこの日以来、11月の第四木曜日は感謝祭だ、というのだけは忘れることがありません。