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航空歴史館いしぶみ


中島飛行機株式会社武蔵製作所関連のいしぶみ

武蔵野市  都立武蔵野中央公園  旧中島飛行機株式会社武蔵製作所
高齢者総合センター前 旧中島飛行機株式会社武蔵製作所工場正門跡
関前高射砲陣地跡
グリーンパーク遊歩道  旧中島飛行機株式会社武蔵製作所工場引込線跡
グリーンパーク遊歩道  旧中島飛行機株式会社武蔵製作所工場引込線橋台跡
 武蔵野市立第四中学校 第一青年学校跡
 武蔵野市立陸上競技場内 運動場跡地説明板
 延命寺 平和観音菩薩像 250キロ爆弾の破片
西東京市  中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者慰霊碑

 

 

A3633-1 東京都武蔵野市 旧中島飛行機株式会社武蔵製作所跡
            Old Nakajima Aircraft Co.Ltd,  Muasashi Plant, Musashino City, Tokyo Metropolitan
    
◎  武蔵野市緑町 都立武蔵野中央公園  旧中島飛行機株式会社武蔵野製作所 

撮影2011/01/16 れすお


 2019年 (2021/10/09掲載)

      

 2018年に拡張された新エリアのひとつ「樹林ゾーン」の「円形広場」に5枚の説明板が2018年6月に新たに設置されました。
 あわせて、拡張工事中に発見された工場地下道の鉄筋コンクリート床の一部も展示されています。 (小社人)

撮影2019/01/13  小社人
説明パネル設置風景 1,2


説明パネル設置風景 3,4,5


説明パネル 個別画面 クリックで拡大します。










拡張工事中に発見された工場地下道の鉄筋コンクリート床の一部展示


工場地下道の鉄筋コンクリート床の一部展示説明

 

◎ 武蔵野市緑町 高齢者総合センター前 旧中島飛行機株式会社武蔵野製作所工場正門跡

撮影2015/03/22 れすお

   

       



 

◎ 武蔵野市関前 関前高射砲陣地跡

撮影2015/03/22 れすお

   

   

◎ 武蔵野市八幡町 グリーンパーク遊歩道  旧中島飛行機株式会社武蔵野製作所工場引込線跡

撮影2015/03/22 れすお



1942年頃 中島飛行機武蔵野工場専用線


1951年頃 

 武蔵野競技場前駅までの線路跡がグリーンパーク遊歩道(南の三鷹市部部分は堀合遊歩道と呼称)に生まれ変わった。 境浄水場へはろ過用砂利運搬の専用線であった。

    

◎ 武蔵野市西久保 グリーンパーク遊歩道 引込線橋台跡

撮影2015/03/22 れすお



鉄道橋を模した新橋




◎ 武蔵野市吉祥寺北町5-11-41 武蔵野市立第四中学校 第一青年学校跡 青年学校

撮影2015/09/23 れすお





 青年学校とは、国民学校(小学校)の初等科6年、高等科2年を終えた青年を働かせながら4〜5年間主として実業を学ばせた学校です。市町村立のほか大企業も設けていました。中島の武蔵野製作所には、陸軍関係の第一青年学校と海軍関係の第二青年学校がありました。説明板によると、第一青年学校の校舎と寄宿舎が爆撃され、更に、運動場の土盛り(観覧席兼用か)に掘った防空壕まで爆撃されて多くの青年が犠牲になりました。

 
 この記念写真、撮影の意図をめぐり思い迷っています。
 号令を掛けて集合させ、メモりアムとして写したものに相違ありません。しかし、焼けて窓枠が吹っ飛んでいる校舎をバックにして、何を語ろうとしているのでしょうか。無事な者の記念というなら死傷者に対する冒涜にもなりかねないし、被害を乗り越えて日本は必ず勝つという意気込みを表現したいのか‥‥
 一人ひとりの顔は、洗脳教育による真剣なまなざしのようにも見えるし、あまり深く考えず現実を受け入れているようにも見えるし、なんとなく余裕も感じられます。戦時中の写真としてはバックの焼け跡ともども実に異色です。皆さんは、どのように見ますか?

◎ 武蔵野市吉祥寺北町5 武蔵野市立陸上競技場内 中島飛行機運動場跡   運動場

撮影2015/09/23 れすお





 

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平和観音

A3633-2 東京都武蔵野市緑町 
      Enmeiji Temple、Musashino City, Tokyo Metropolitan  

                        
◎ 延命寺 平和観音菩薩像 250キロ爆弾の破片 撮影2011/01/16 れすお




 

      

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西東京市
A3656-3 東京都西東京市東伏見1丁目 東伏見稲荷神社 
            Nakajima Aircraft Memorial, Nishitokyo City, Tokyo Metropolitan

                        
 東伏見稲荷神社境内 中島飛行機株式会社武蔵野製作所殉職者慰霊碑 

2015年

 東伏見稲荷神社の中島飛行機の殉職者慰霊碑が表側から神社裏側に移設されました。移設の理由は神社の都合らしいですが詳細は分かりません。そこは一般参拝者の目に付くことはまず無いような場所で、生垣で仕切られており人間一人分位の隙間から出入りするような感じです。関係者以外は分からないような場所でひっそりと佇んでいます。

 撮影2015/09/23  れすお


2009年

撮影2009/07/20  れすお

碑文

内容に歴史的価値があるので下記に書き写しました


                建設之由来
中島飛行機株式会社は大正6年12月群馬県太田町に創立され終戦後富士産業株式
会社と改称した。昭和13年5月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され昭
和16年11月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った。

昭和18年10月時局の要請により両製作所を合併して武蔵製作所と呼称するに至った。
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加えその総数は5万
人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった。

米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし
昭和19年11月24日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ、爆弾五百発が命中し
二百余名の殉職者と五百名を超える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった。

武蔵野製作所はこの爆撃のため終戦後平和産業に転換することができず富士産業株式
会社が武蔵整理部として整理業務に専念し毎年11月24日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った。 

昭和23年11月占領下でもあるに拘わらず慰霊碑の建立を企図中島飛行機株式会社武蔵野製作所殉職者慰霊碑建設委員会を組織し有志の浄財をもって武蔵野製作所稲荷神社跡に
慰霊碑の建立を行い同時に殉職無縁者永代供養のため武蔵野市源正寺に供養碑
を建立した。昭和23年12月東伏見稲荷神社司祭により遺族を迎え除幕式並びに慰
霊祭を挙行した。 

爾来武蔵野整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けてきたが慰霊碑の完全な
保存と永代祭祀のため当初より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に
遷座することになった。昭和39年11月に遷座を完了し翌12月全国より遺族を招き遷座祭
並びに二十年祭を挙行した。慈に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵野製作所殉職者の霊を永えに慰めんとするものである。
     
昭和39年12月5日
                       中島飛行機株式会社武蔵野製作所
                       殉職者慰霊碑建設委員会

 

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