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航空歴史館 1958〜1961年の 立川基地三軍統合記念日基地公開

 

1958年5月17日
1960年5月21〜22日 空軍機
海軍機
1961年

1 1958年

撮影1958/05/17 (土曜日) 本多哲也 提供横川裕一


C-130A 日本での初公開

       






B-57B




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1959年  1959
 
1960/05/21(土曜日)、22(日曜日)   撮影 無印高田和彦  ●小山靖昭  航空情報1960年7月号
米空軍


C-124A






 

C-47









C-54






 

C-130








 

RB-57A




 

解説  山内秀樹

 RB-57A 52-1446
おそらく横田基地の6091RS/363TRWに所属していた当時の撮影。1963年には横田基地の56WRSに転属してい ます。なお、RB-57Aに関しては、INTERIM REPORT ON OOPERATIONAL SUITABILITY TEST OF THE RB-57A AIRCRAFT, FINAL REPORT ON OPERATIONAL SUITABILITY TEST OF THE RB-57A AIRCRAFT2冊の報告書 によると、低高度では高速度で撮影すると搭載のK-38カメラではブレが生じるとか、後方視界が悪いので、敵機の迎撃を受けてもパイロットは視認できず、撃墜されるので、後方警戒レーダが必要とか、結構面白い内容です。

C-119G




解説 山内秀樹
 C-119G 53-7863
、木更津基地の21TCS/493TCW所属機の可能性が大ですが、所属を示す部隊マーク等は読み取れませんし、当時のC-11911機がどの部隊に所属していたかをバッチリ示す資料も空軍機マニアはだれも作っていませんので、判定不可能です。

H-19 米軍 航空自衛隊



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厚木飛行場工事のため間借り中の米海軍機    1959海
 
AD-7


142074 AD-7 VA-95 NG-512 VG-9 CVA-61(空母レンジャー)
142010 AD-7 VA-95 NG-501 CV-9 CVA-61(空母レンジャー)

142060 AD-7 VA-95 NG-507 VG-9 CVA-61(空母レンジャー)

● 
人物は小山靖明さん

 

解説 山内秀樹

 ちょうどこのころ厚木基地は工事中で、海軍機は立川等近傍の米空軍基地で展示されました。これらのAD-7もその一部で、攻撃空母レンジャーの2回目の西太平洋展開時(196026日〜830日)に搭載してきたCVG-9[NG]の一構成部隊であるVA-95の所属機です。

 一番手前が、142074/AD-7/VA-95/NG-512/CVG-9/CVA-61、その次はVA-95AD-7 NG-507Bu.No.142081(72機生産されたAD-7の最終号機 ・つまりスカイレイダーの最終号機)、攻撃空母レンジャーの2回目の西太平洋展開時(196026日〜830日)に搭載してきたCVG-9[NG]の一構成部隊であるVA-95の所属機です。 一番向こうは、142010/AD-7/VA-95/NG-501/CVG-9/CVA-61で、これは72機生産されたAD-7の第一号機です。

 つまり、この写真はAD-71号機と72号機(最終号機)が並んでいる偶然にも珍しい写真です。

 当時のVA-9512機のAD-7で編成されており、任務は超低空飛行で敵地に侵入して核攻撃を敢行すること。そのために、朝鮮戦争や、ベトナムでドンパチやったのとは異なる装備を施されています。

 あくまで奇襲攻撃で、対空砲火の制圧とか、対空砲火に撃たれることすら想定外で、本来は外翼にも装備しているM3 20mm機関砲を外し、内翼の2門のみとしているほか、左右外翼下面に6基づつ装着できるAero14エジェクターラックを2(左右合計4基)を残して取り外し、エンジンの補機部分から操縦席側面と下面に貼り付ける装甲板もすべて撤去し、(それで、操縦席側面の胴体に蹴り込みのステップが見える・・・装甲板を取り付けるとこれが隠れるので、装甲板の外側にステップが突出する形で取り付けられる)、軽量化と空力抵抗の低下を図った核攻撃専用のいでたちを示しています。

 核爆弾は胴体下面に1個取り付け、(一般にMk.7核爆弾もしくはMk.1 BOAR核ロケット弾を搭載)往復10時間余りの核攻撃に宛てられていました。燃料は胴体内部の380Galと、写真にある通り内翼下面のAero 1D 300Gal増槽2本で、合計980Gal。航続性能を制限したのは、燃料搭載量ではなくエンジンのオイルの量 でした。

 核爆弾を抱えて空母を発進し、飛行甲板の高さで海を 渡って、敵のレーダサイトから離れた海岸から陸上に上がり、レーダに引っ掛からないように、谷間を抜け、超低空を目視で有視界飛行をしながら目標に到達し、LABSを用いて、核爆弾を投げ上げて空中爆発させ、スタコラサッサとまた、超低空を空母に逃げ帰る任務 でした。

 実際に演習をしてみると、その成功率はかなり高かったらしく、ベトナム戦争直前まで核攻撃任務に当たってい ました。当然空母レンジャーにはこれらの核兵器が搭載されていたと考えられます。




● 





WV-2







解説 山内秀樹

 WV-2
ですがBu.No.は読めません。所属はグアム島NAS AGANAVW-1でテイルコードは[TE]。任務は西太平洋に展開した米海軍艦艇(つまり第7艦隊)に対する早期警戒。
 米本土防衛のために空飛ぶレーダサイトのようなの米空軍のRC-121と異なり、前方展開して、艦隊に接近を試みる敵機に対する早期警戒を行うので、常にレーダで索敵しているのではなく、レーダを止めてESMで敵機や敵艦艇のレーダを探知し、その位置を味方艦隊に通報する電子偵察も重視しているため、ESM(ECM)機材が充実してい ます。


R7V-1


解説 山内秀樹

 R7V-1 131654
で写真3のWV-2と同じグアム島NAS AGANAVW-1でモデックスはTE-00(よく見ると機首側面のU. S. NAVYの文字の前方に00の数字が見え ます)。WV-2は航続性能が良いので、かなり遠方の基地に着陸することもあり、そこで整備・補給するために部品や整備要員を搭載して支援に当たるのが主任務 です。


C-118


JRB-4




HUP-2

撮影本田哲也 提供横川裕一


 

Uコン大会




 タチカワベース内には、日本人も沢山働いていました。基地内には 模型飛行機専用(Uコントロール)の飛行場もあり 米兵のともだちと カタコトの英語で模型飛行機を飛ばしに 行ってた時のことを 思い出しました。  小山

あの当時の日本人のマナー

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日替わりメモ2010/04/07

 立川基地の三軍統合記念日に3機のスカいレーダーが並んでいる‥ 当日、展示のために飛んできた外来のようにはとても思えないので、山内秀樹さんに問いかけてみました。

 答えは、1960年に厚木基地の工事 のために、NAVY機が立川、横田、ジョンソン(入間)のUSAF基地に分散しており、三軍統合記念日でそのまま公開されたという単純な話しでしたが、このAD-7(A-1J)が戦術核攻撃機であることと、山内さんが 最後に結んでいる『当然空母レンジャーにはこれらの核兵器が搭載されていたと考えられます』なる一節が、このところの核密約暴露問題ともからんで興味を惹きます。

 この年は、60年安保騒動の真っ只中にあり、岸首相は「日本は核武装しないし、核兵器の持ち込みを認めない」と明言し、それが後の非核三原則につながる日本の国是にもなりました。にも拘わらず、立川では隠すこともなくいっま核攻撃機が平然と並べられ、横須賀に立ち寄る空母レンジャーは核兵器を積んでいたと言います。しかし、当時の航空雑誌を読んでも、関心がなかったのか逃げていたのか核搭載機配備の記述が見当たりません。
航空情報1960年7月号のグラビア「3軍記念日に拾う」中に小山さんと同じアングルの写真があります。 他の紙面にも核のカの字もないのが不自然 な気がします。 (コピー掲載酣燈社の許可済み)

 考えてみれば、A-1Jスカいレーダーに替って配備されたA-4スカイホークも、それ以後の攻撃機も核戦術を任務の一つとして今日まで続いている訳で、その母艦が核を積んでいるのは当然のこと、政府の公然の嘘と現実との乖離は、沖縄密約のはるか前からの常識であった訳です。

 その常識が、国民の常識とはならず、ごく一部の人間だけに機密情報として受け継がれてきたみたいですが、マスコミも左翼も核攻撃の専用機が日本の飛行場に駐留しているという事実に疑念を抱かなかったことには不思議な気がします。

 1960年は、
新安保条約に調印、衆議院で強硬採決(参議院では採決ができず、自然成立)
岸首相の陸自治安出動要請を赤城防衛庁長官が拒否
岸首相が金を出して暴力団右翼連合にデモ隊対策をやらせる
全学連の国会デモで死者が出る
アイゼンハワー大統領訪日準備で羽田に飛来したハガチ―秘書がデモ隊に取り囲まれ海兵隊ヘリが救出した
岸首相が襲われ重傷 翌日内閣総辞職 池田内閣成立
社会党浅沼委員長が刺殺された

という騒々しい年でありましたが、5月の三軍統合記念日では、ジョンソン基地において徳川氏も出席してアンリ ファルマン機の返還式が行われるなどもあり、立川の写真を見ても至極のんびりしたものです。この落差をどう説明すればいいのか、歴史の勉強不足を痛感します。でも、その状態は、沖縄をめぐり、或いは岩国をめぐって今現実の問題であり、不可解であろうとなんであろうと流れは連綿として続いていることだけを実感いたします。

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1961年 1961

撮影1961年 本田哲也 提供横川裕一






















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