野沢 正さんの記述 (ご本人執筆のものかどうかは未確認)
明治43年12月19日、日本ではじめて飛んだ動力付飛行機 アンリ
ファルマン1910年型についていた木製プロベラが東横線の学芸大学駅前にある”うどん屋”にあるというので、早速出かけてみた。急な話なので、特に予備調査もせず下見のつもりで拝見したところ、一見して、明治末期か大正ひとケタ時代の逸品であること
は、間違いないものと直感した。
早速、アアンリ
ファルマン1910年型についていたプロペラを調べてみた。
徳川好敏著 「日本航空事始」に、12月15日の滑走試験中に橇が地面の突起にぶつかって車輪が抜け、プロペラと支柱2本を破損して困っていたところ、奈良原委員の手元にグノーム式発動機用の金属製プロペラがあり、徹夜で取り付けた、という記述がある。
したがって、ここにある木製プロペラは、15日に滑走中に破損したものを後に修理したものと、一応推測される。
しかし、念のために更に調べてみると、次の点でこれはアンリ ファルマン1910年型のプロペラではないことが確認できた。
@ はじめアンリ
ファルマンについていた木製プロペラは、フランスのショピエール社製で、直径が2.6b、ピッチ1.3bであったのに対して、このプロペラは半径1.25bで、ピッチはそれよりもかなり浅いようである。
A プロペラ ブレードの形態が、ショピエール社製とはちがい、全体的にわずか細身である。
B ハブ フランジの両側に菱形の止め金がついているが、ショピエール式プロペラではこれをつけでいなかった。
C アンリ ファルマン1910年型グノーム50馬力エンジンは、エンジン マウントとクランクケースの中間にプロペラを
配置したロータリーエンジンであるが、このプロペラは軸穴が小さく、ふつうのクランクシャフト直結用のハブ フランジをつけている。
以上のようなわけで、このプロペラは、アンリ ファルマン1910年型のものでないことは確かであるが、中里さんが話したようにその代用プロペラなのか、そうではないのなら、いったいどの飛行機についていたものなのだろうか。
この特殊な菱形フランジつきプロベラの正体をつさとめるため、臨時軍用気球研究会時代のプロペラの資料を調べてみた。その結果は一応次のようなものである。
@ アンリ ファルマン1910年型をはじめ、多くの会式国産機を徳川委員のもとで製作整備した実務者は、中里五一技手と
大島儀三郎作業手の2人を主任として、杉山吉太郎、平野甚蔵両一等卒および数名の大工と助手の兵卒約10名あった。
会式とは、臨時軍用気球研究会の略称で、所沢ではこの会式の設計主務者である徳川大尉の名をとって、徳川式とも称し、現地の新聞記者が徳川式と報道したため、
一般には徳川式と呼ばれるようになった。
A 国産の会式(徳川式)には明治44年の1号機から、途中の4号機を除いて、大正5年の会式7号機までの各型があり、その後は制式1号機、2号機の名で製作が続いた。
B 以上のうち、会式7号機という名の機体にほ、大正4年の会式7号偵察機(1915年塑アンリ・ファルマンの国産化)および大玉5年の会式7号駆逐機(沢田中尉
主務設計の最初の国産戦闘機)およびモーリスファルマン1914年型改造機(通称 改造モ式14年型)の一部の機体だけが、アメリカ製のカーチス水冷式V型8気筒90〜100馬カエンジン
をつけていた。
C 当時、菱形の補強フランジをつけたプロペラは、日本ではカーチス式だけで、今回の木製プロペラは、ハブ
フランジ部木製本体および先端部の金属鈑覆いとも、前記の3機種のものに酷似していて、臨時軍用気球研究会ではカーチスエンジンつき以外の飛行機には、同類のプロペラは見当たらない。
以上により、結論として、このプロペラはアメリカのカーチス社製作で、大正4年頃に輸入したものに、ほぼ間違いないことになる。
しかし当時、アメリカのカーチス飛行学校で操縦術を習い、カーチス・プッシャー複葉機をもって帰国した日本人民間飛行士数名がいたし、アメリカ人曲技飛行士の何人かが、カーチス・プッシャー複葉機で興行飛行をしていたので、これらの機体の予備品として持ち込んだものを、研究会が手に入れて、前記の機体にとりつけたとも、考えられないこともない。
したがって、この木製プロペラが、はたしてどの機体につけられていたかは、当時の関係者を捜し歩いて思い出話をきくほかに、手がないのである。
なお、当時の資料によると、 このプロペラはマホガニ板の積合材で、ハブ・フランジは鋼鉄製、止めボルトは8本、フランジの穴は前部16個、後部8個、ブレード
端部はカーチス式鋼鈑覆いで、最高回転数は1200回転/分となっている。
また中里善三氏と中里五一氏の名前のちがい、もし、別人ならその関係も知りたいものである。
(以上 転載許可済み)