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航空歴史館 龍ヶ崎飛行場で売り出された零式艦上戦闘機と栄エンジン

 
@ 1975年の状況

 写真は竜ヶ崎飛行場の駐車場脇の空き地に置かれていたものです。主翼と胴体は2機分、エンジンは1基、展示というよりも転がしてありました。操縦席内部は何も付いていません。尾部はどこか別の場所に保管していたのではないかと思います。あるいは無かったのかも知れません。

 よく分りませんが、当時5〜6機の零戦が戻ってきたと思います。名古屋の三菱、河口湖の自動車博物館に引き取られたものもあります。竜ヶ崎では河口湖の93中練の復元もやっていました。

撮影1975/07 geta-o






1978年 ライト航空株式会社の広告

 


解説1 N1K1

 geta-oさんの写真の機体の2機ともラバウル帰りのものです。

 1機のシリアルは三菱4240(一部部品4241)と判明しています。推測をまじえて4240の経緯は次のとおりです。

 ラバウルでの最後の零戦写真と言われているものが次の書籍と以前lj-aircraft.comにも載っていました。それは、白塗装に黒十字の表記を入れた零戦52型3機と100式司偵1機の列線です。
 Classic Warbirds Number 7
 Aero Publishers Japanese Naval Air Force Camouflage and Markings World War U
 
 零戦52型でシリアルがわかっているものは4043、3479で、この2機がオーストラリア軍に渡され、4043は現在フロリダにあります。もう1機の行く先がニュージーランド軍ですが、そのシリアルは不明です。(主翼下面の十字なし) 100式司偵は2783です。

 写真の3機とも52型なのに何故か22型のシリアルが記載されています、そのため当時ラバウルで頻繁に行われていた再生機の後部胴体シリアルを記載した物だと推測できますので3479が4240の可能性が高いのです。

 この後この機体は再生機故に?ラバウルに放置されたと思います。

 航空ファン誌1976年1月号75〜78ページ「旧日本軍機を求めてラバウルへ」の写真の中に龍ヶ崎で展示されていた4240の破損状態と一致するものが見られます。また記事と写真に黒十字のことが載っております。

 龍ヶ崎で売り出された当時に訪れた方の写真にも20センチ幅の黒十字が確認できました。その後、4240はいろいろな経緯があり、結局レストアされて靖国神社に奉納されているようです。

 龍ヶ崎のもう1機については個人の方に渡りました。


解説2  2004/01/21 大石治生

 日本国内の零戦ではないのですが、N1K1さんがお調べになったラバウルの零戦について、スミソニアン博物館の上級学芸員だったロバート・C・ミケシュさんの著書「サムライたちのゼロ戦(BROKEN WINGS OF THE SAMURAI)」の巻末で現存する日本機リストが紹介されています。

 ラバウルから1972年に回収された機体番号「三菱4043」はオーストラリア戦争記念館に展示された後に米国フロリダのウィークス航空博物館に引き取られたと記載されております。

 「サムライたちのゼロ戦」は日本軍機が敗戦を迎えた直後の各基地での様子を豊富な写真で伝えております。そして米国へ運ばれた機体の名前と機体番号を網羅しているだけでなく、現存する機体の状態や機体番号までも詳細に解説されてます。  1995年講談社発行


解説3  2014/05/03 霞ヶ浦の消息通

 N1K1さんの解説ににある三菱4240の経緯ですが、個人が購入して、阿見町の自宅前で再生を行ったとのことです。国土地理院の過去の航空写真でも機体の存在は確認できました。
 この再生方法ですが、後部が無かったので鉄板を板金加工して形を整え外見上は同じように見せていたそうです。近所の方が手伝いに行って作業したようですが、有り合わせの材料を多用したようです。
 この後 河口湖自動車博物館のオーナーが直接購入して持っていったそうです。靖国神社へ行った機体がこれだとすれば、河口湖自動車博物館での本来の復元には大変なご苦労があったものと思われます。
 

 

A 龍ヶ崎エンジンにみる栄21型の特徴

撮影1979/10/16 YS45
 

 

 

 

解説3  2004/01/21 大石治生

 判り易いように写真に矢印と番号を付記しておきました。

 先ず、@のカウルフラップにプロペラガバナー調整用のロッドと干渉しないための切欠きがあります。これは、零戦の22型や32型と52型に見られる特徴です。

 Aではプロペラは無くなっているものの、基部が残されており、形状から3翼のプロペラと認めれます。また、プロペラ基部にはスピナーの残骸らしき物も確認できます。

 Bはカウルフラップですが、単排気管の場合は大きな切欠きが存在するので、集合式排気管の機種であり、零戦の32型か22型と思われますが、52型の極初期には集合式排気管を装備されていた機体が存在していたことが渡辺洋二編著の「戦う零戦」で写真が紹介されてます。

 Cは気化器ですが、丸メカニックNO.4の零戦第2集で紹介されている中島二連降流100甲気化器と形状や配管類の口金位置が同じです。そして減速室の大きさから判断して「栄21型」と推測できます。


 Dでは、プロペラに同調した胴体取り付けの機銃が装備された事を示す二つの機銃弾条溝が有ります。つまり、現在の自衛隊機や民間機用では無く胴体機銃を装備した機種であったと推測できます。(エンジン後部の写真を見ると、気化器下にある筈の機銃連動カム装置は失われてしまってる)

 Eはプロペラ調速器の取り付け部分なのですが、綺麗にネジを外して取り外されており、防錆塗料が全て剥れてしまっている他は腐食や損傷が少なく、撮影されたのが1979年となっておりますので、戦後間もなくの頃に戦地となっていた海外に放置されちたものを持ち帰り、保管されていたものを持ち込んだのでは無いでしょうか。 

 Fの真鍮製と思われるホース取り付け部分は、錆も見られず接続がパイプを外されたばかりのように見えます。放置後から少しずつ部品を剥ぎ取られた印象を受けます。

 矢印の先のプレートは燃料ポンプの一部と思われるのですが、画像の解像度が荒くて解読困難ながら、「注」と云う漢字らしき文字が見えます。「CAUTION」で無く「注意」と書かれているなら、確かに日本製エンジンです。
 

 

 写真のGに示す通り、シリンダーヘッドカバー(給排気バルブのカムカバー)が取り外されていますが、本体側でカバーと接合される部分の腐食の程度が他と同じであるので、カバー類を取り外されてから野ざらしにされたのでは無いでしょうか?

 バルブ駆動カムなどの錆の程度もシリンダーやエンジン外部のネジ類の錆具合と変わらないです。エンジン下部のシリンダーヘッドカバー(カムカバー)は取り付けられたままですので、野ざらしにされてから部品を剥ぎ取られたり腐食が進行してしまったのでしょうか?

 レストアすれば地上運転出来そうな状態だけに、その後のエンジンの行方がたいへんに気になります。