『航空情報』の名編集長でその後航空評論家となられた関川栄一郎さんをGoogleで検索すると200件ほどがすぐヒットしました。
航空事故が起きるたびにNHKの解説を担当された知名度からすると、これはまあ納得できる数字ですが、
日本を代表するもう一つの航空雑誌、『航空ファン』を育てた戸田万之助さんを検索すると、わずかな件数で、しかもほとんどが奥付に書かれている名前としてでてくるだけです。
黒子に徹していたせいもありますが、多くの飛行機マニアがお世話になった先代の『航空ファン』とその社長、戸田万之助さんについてここらで少しまとめておくのも良いかなと思い、『インターネット航空雑誌ヒコーキ雲』をお借りして私の知っていることをお話ししてみたいと思います。
最初にお断りしなければなりませんが、現在の『航空ファン』は1979年に『ワールドフォトプレス』が引き継いだもので、スタッフや編集方針が全く違います。
・ 二人の助
1970年代の『航空ファン』の奥付きを見ると、まるで時代劇の登場人物のような名前、編集人小笠原伝之助、発行人戸田万之助
と言うコンビをご記憶の方も多いと思います。
故小笠原伝之助さん 故戸田万之助さん
60年代の後半から編集長になられた小笠原伝之助さんは、2005年に亡くなられたそうですが、私より6歳ほど年上で秋田生まれの背が高いいい男でした。
戸田万之助さんは私より20歳年上でしたので、多分大正10年くらいの生まれだと思います。残念ながら5年ほど前に83歳くらいで亡くなられたそうです。
1970年代の終わり頃『航空ファン』を発行していた文林堂を、ワールドフォトプレスに譲られ、並行して経営していた『戦車マガジン』に専念された80年代には何度もお会いしましたが、この『戦車マガジン』も富士重工を退社された安藤英弥さんに譲られて、以後静岡県の熱川に引退された様です。
戸田万之助さんは長野県の出身で、戦前は満州鉄道で働いていました。
戦後は上野で商売をされていたそうですが、『文林堂』はご自分ではじめられたのではなく、後年漫画雑誌の『ガロ』を出される『青林堂』さんから、立て直しを頼まれたのではないかと思います。
私が初めてお目にかかったのは今からちょうど50年前の1959年で、文通をしていた東京の友達に連れられて神田の事務所を訪ねました。
その時お相手をして頂いたのが『文林堂』の社長の戸田万之助さんで、私は同姓というのもあったのか、その後ずいぶんお世話になりました。戸田万之助さんは小柄でちょっと小太りな方で、
しょうないよ! と言うのが口癖でした。
この頃の『航空ファン』の編集長は戦前から雑誌の編集をされていた野沢正さんでしたが、経営面や渉外を戸田万之助さんがやっておられました。
いきさつが良く思い出せないのですが、私は夏休み明けの9月から『航空ファン』でアルバイトをすることになり、一日300円の日給で週に三日くらい通うようになりました。
当時18歳で写真の学校に行っておりましたが、一月の仕送りが8000円で、そのうちの5000円が下宿代でしたので、このアルバイトは天の恵みでした。
主な仕事はたまりにたまっていた写真を見やすく整理することでしたが、それまでは単に積み上げただけで、いざ使いたいと思っても見つけ出すのに大変でした。
メーカー別、機種別に整理して見やすくしましたが、ほとんどは四切版くらいの大きさで、大型カメラで撮った公式写真のすばらしさには、つい仕事の手が止まってしまいました。今でも米海軍が撮った空母の写真のすばらしさは忘れられません。
写真の整理に目処が立つと以後は雑用や、写真の撮影などいろいろやらせて頂きました。
戸田万之助さんと一緒に府中のアメリカ第5空軍の司令部に行った時のことですが、終始にこにこして、何度も
Shure!、shure!と連発するため、シュワーおじさんというあだ名がつけられた様です。小泉さんという通訳の方が親切にしてくれて、戸田万之助さんはアメリカ空軍からたいへん信頼されているようでした。
この頃の日本の航空雑誌は『航空情報』『航空ファン』の二誌になっていましたが、わたしはずっと『航空情報』を取っていましたので、発行部数が実際には『航空ファン』の方が多いと聞いて非常に驚きました。また『航空情報』に専属で図面を描いておられると思っていた橋本喜久雄さんが、橋
機一の名前で『航空ファン』にも書いていることを知って、これまたびっくりしました。
1959年に『航空情報』から別冊として、『航空ファン読本』と言うのが発行されたのですが、これは紛らわしいというので愉快ではなかったようでした。
野沢さんは1959年半ばで、『日本航空機総集』の編集に専念するために出版協同社に移られ、
新しい編集長には浦栃さんが昇格しました。
正直当時の『航空ファン』の編集部には飛行機のオタクというのは一人もいなくて、皆さんお仕事として飛行機を扱っているというので、執筆はほとんど外部に依頼していました。
TSMC(東京ソリッドモデルクラブ)の小橋良夫さんがアメリカの雑誌、エスクワイアーの記事などを参考にして書かれた、第一次大戦のエースの連載がありましたが、私はこの記事でリッケンバーガーとかギヌメールの名前を知り、日本人のバロン滋野と言う人が活躍したことも初めて知りました。
毎号懸賞があり賞品には外国製のプラモデルがあたったのですが、プラモデルは当時非常に高価だったため、アメリカに定期的に出張する方に買ってきてもらっていました。
『航空ファン』がプラモデルに取り組んだのが『航空情報』よりも遅かったのは、ソリッドモデルのファンがついていたからだと思います。
しかし60年代の半ばになると橋本喜久雄さんがマルサンのキットの原図を書くようになり、小鷹和美さんのアクロの記事など内容も充実してきました。60年代の終わり頃には、アメリカレベルキットの日本代理店になっていたグンゼ産業と組んで、プラモデルコンテストを行い、優勝者はアメリカに招待するという、当時としてはたいへん豪華な賞品の催しもタイアップしていました。
『文林堂』という会社は『航空ファン』関連のものしか出していませんでしたが、いずれは硬い本も出したいと思っていて、会社の名前を『航空ファン社』に改めようという考えは無かったようです。
先代の『航空ファン』の読者ですと、四分の一くらいの頁がエンジン機やUコンといった模型飛行機に使われていて、何か納得がいかない思いをされた方も多いのではないかと思います。私もそうだったもので、どうしてエンジン機などの記事を載せるのか、と聞いたことがあります。それに対して戸田万之助さんの答えは、『広告をもらうんだから、しょうないよ!』と言うものでした。
毎号表紙の裏には日本航空の広告が載っていましたが、これは箔付けのために無料で載せていたらしく、たまに利用する航空料金をただにしてもらって相殺をしていたようです。
社員は経理を含めて10人くらいでしたが、社員のようなそうでないような広告担当の方が二人、蜂須賀さんと伊辺さんがおられるなど、広告の比重が高かったようです。この伊辺さんは後に
『グラフィック アクション』の編集を担当されました。
神田の神保町にあった事務所は二階建で、一階に経理と応接セットがあり、二階が編集部でした。
日本機の関係には当時から力を入れていて、毎月のように戦争参加者による座談会が行われていました。場所はいつも一階の応接セットに座って行われ、私も隼の檜与平さんにお会いしたことがあります。
私がいたのは1959年、60年の二年間ですが、この時期に赤城の艦上から真珠湾攻撃に出発する模様を記録したすばらしい写真が見つかりました。また1964年頃と思いますが、それまで一枚の写真も見つかっていなかった烈風の、鮮明な三枚の写真を発表したのも『航空ファン』でした。
戸田万之助さんの大きな功績と思うのは、菊池信吉さんが撮られた日本陸軍機の大量の写真を発表されたことではないかと思います。写真を入手されるまでのご苦労は何度か発表されていますが、しつこい(失礼!)くらいの情熱が発掘したわけで、これだけでも戸田万之助さんの功績は永遠だと思っています。
60年代の初めには岩田
尚さんが編集部に入られたのですが、この方は日本機のエキスパートで、『航空情報』にもおられたし、廃刊になった『航空マガジン』にもおられた方でした。
岩田さんはどの写真はどこにある、というデーターベースを頭の中に持っていて、貴重な写真をすぐ借りてくるという才能を持っていました。
60年代にはアメリカの公文書館にあった終戦時の日本軍用機の写真を発掘したのですが、これは当時アメリカに長期出張しておられた、富士重工の安藤英弥さんの功績とお聞きしました。またジョンソン基地にいたロバート
C。 ミケッシュ氏と交流したり、後年軍事評論家として知られる江畑謙介氏も発掘されました。
浦栃編集人退社 1966年6月号
小笠原編集人の就任 1966年8月号
本誌以外にも増刊を発行していましたが、『
最新ソリッドモデル工作の入門』というのはベストセラーで、
良く注文が入っていました。
1960年1月号の掲載広告
1965年に訪れた時は、ちょうど『世界の傑作機』の第1号を発行するところでした。この『世界の傑作機』を育てたのは岩田さんと、1969年頃に編集部入りした長久保
秀樹君ですが、長久保君は72年頃戸田万之助さんと衝突して退社してしまいました。
世界の傑作機 岩田尚編集人の頃
その後『世界の傑作機』の編集は宮本
勲君が引き継ぎましたが、長久保君と宮本君の二人の若い力が現在の『世界の傑作機』の基礎を作ったわけです。残念ながらこの二人は共に若死にしてしまいましたが、いろいろつきあいのあった思い出深い二人です。
『航空情報』はスクープをものにするなど話題性のある紙面作りでしたが、『航空ファン』はアメリカ空軍と仲が良く、私が横田で撮ったB-52の写真を持ち込んだときも、第5空軍の広報に見せて、載せて良いか聞いてくる、と言われたほどです。
ただこの関係が功を奏したのか、ヴェトナム戦争を現地で取材したり、韓国、沖縄、グァムなどの取材が許されたりしました。
戸田万之助さんは1961年には横田基地で、コンヴェアー
TF-102Aに乗って、もう一機のTF-102Aを空撮したのですが、何とこのもう一機には『航空情報』の関川編集長が乗っていて、写しっこをしたと言うことです。
またヴェトナムの現地取材では 空軍のA-1E スカイレーダーに同乗して、爆撃を体験した事もあります。
台湾では亡命してきたミグ19やIL-28、アクロバットチーム雷虎小組のF-86Fを撮ったり、フィリピンでもアクロチーム
ブルーダイヤモンズのF-86Fを撮ったりしました。タイでのASEANの演習も取材するなど、アメリカ空軍との友好関係を最大限に利用していました。
1960年11月
岩国基地を取材 (左)A-4の前でブリーフィングを受けているのは小笠原さん、私と英語が出来たので渉外を担当していた原田さんです。(右)帰りの飛行機
R4Q パケットに乗る前に小笠原さんと一緒に撮ったものです。パケットは女性用のトイレが付いていないので,原田さんは翌日のR5D(DC-4))の便に乗って帰ってきました.
。
1962年 立川基地三軍統合記念日の戸田万之助さん
私が働いていた頃から戸田万之助さんは見て楽しむ、と言うのを念頭に置いていて、紙面作りもこの方針にそって記事より写真、と言うのが基本線でした。
毎号の表紙は戸田万之助さんの選定で、また色の校正もご自分でやっておられました。一度だけ編集部にあった富士
T1F2 ジェット練習機の写真を、表紙に使う様にお願いしたことがあります。
編集長の野沢さんが撮られた写真でしたが、前からローアングルで撮ったもので、とてもきれいな仕上がりでした。これが全く使われず眠っていたので、是非これを使ってくださいとお願いしました。何号だったか思い出せませんが、私が推薦したのが使われたのはこの一度だけでした。
1961年からはアート紙にグラビア印刷するという方法で、写真の頁が充実しました。60年代の後半からは橋本さんのカラーイラストと折り込み図面、カラー頁の拡張と分厚くなったのですが、1974年のオイルショックの時は紙の確保が大変だったようで、その上新しく『航空情報』から分かれた『航空ジャーナル』の影響もあったのか、1976年頃伺ったときには、"今は『世界の傑作機』のおかげで食っている"と言われてました。
1979年に『ワールドフォトプレス』に『文林堂』の権利を譲られた事情はあまり知りませんが、経営の限界を感じておられたのかもしれません。
1980年 世界の傑作機 ボーイングB17の奥付
文林堂の住所が神田から歌舞伎町へ 戸田万之助さんの名は手続上の仮の名義であり、実質は今井今朝春さんだと思う
先代の『文林堂』は戸田万之助商店、と言っても良いような社長の個性が強く出ていて、社員の方には厳しい方だったかもしれませんが、私は社員ではなくバイトだったせいか、『戸田君
お茶飲みに行こう』といつも近所の喫茶店に連れて行かれ、そこでいろんな話を聞かされました。
社員の方たちは私を戸田君、社長を戸田さんと呼び分けていましたが、社長がいるところでも私に用があるときは戸田君と君付けで呼べるので、なんかストレスを少し解消できていたようです。
戸田万之助さんはずっと独身でしたが、1964年頃40代半ばでお寺のお嬢さんと結婚されました。1966年の4月、空母レンジャーが横須賀に入港して、艦載機を厚木におろしたのですが、その取材をする、と言うので一緒につれて行ってもらうことになりました。朝が早いと言うので前の日に仙台から上京して、横浜の戸田万之助さんのお宅に泊めてもらう事にしたのですが、いらっしゃいませ、と出てきた奥さんを見てびっくり!
何とあの何度もつれて行かれた喫茶店のウエイトレスさんだったんです。お寺のお嬢さんがウエイトレスのお仕事をやっていたんですね。
ああ、そういうことだったのか、と納得しましたが、仕事一筋とばかり思っていた戸田万之助さんにも、こうした柔らかな面もあったのかと再認識した一幕でした。
わずかな期間でしたが、航空ファンでバイトをさせて頂いたのは、今でも感謝の一言です。
70年代以後の航空ファンについてはもっと適切に語れる方がおられると思いますが、60年前後のスタッフは今どうなっているのか全くわかりませんので、僭越ながらご紹介をさせて頂きました。
三