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ヒコーキマニア人生録・図書室 掲載開始05/11/11

弥次さん にがうり  to 福岡空港 from 羽田空港  by 全日空
喜多さん 佐伯邦昭  to 博多駅 from 広島駅 by 新幹線

文章は喜多さん  写真は弥次さんと喜多さん

 

 

目 次

発表日
1日目
 
(1)  プロローグ 弥次喜多道中のきっかけ 05/11/11
(2)  福岡市東区貝塚公園のヘロン 05/11/12
(付録) 37年前の板付基地 05/11/12
(3)  航空自衛隊春日基地開庁46周年記念行事 05/11/17
(4) 甘木市 音楽館  航空機の部 05/11/19
(5) 甘木市 音楽館  蓄音機の部 05/11/20
(6)  築前町 太刀洗平和記念館 05/11/22
2日目 (7) 航空自衛隊築城基地航空祭 05/11/24
(8)  宇佐市 城井1号掩体 と一式陸攻用という掩体壕ほか 05/11/27
(9) 大分市 予科練資料館 05/11/29
3日目 (10) 大分市 日本文理大学工学部航空宇宙工学科 05/12/09
(11) 大分ホーバーフェリー 05/12/14
(12) エピローグ 05/12/14

 

一日目

 

福岡・大分 航空探訪 1日目の1


(1) プロローグ
 弥次喜多道中のきっかけ

 航空自衛隊春日基地では、どういう訳かF-1戦闘機を外から見えるところに展示しているのに、F-104JとF-86Fは見えないところに置いてあります。航空史探検博物館へお寄せいただく写真もF-1ばかりであり、こうなると喜多さんはマニアの悪癖でどうしても基地内の飛行機を写しに行きたいという欲望がつのります。

 そこへ、弥次さんから日本文理大学へ行ってみないかという話がきたのです。ここの航空宇宙工学科も是非見学したいもののひとつですが、近年ヒコーキ目的で訪ねて、はいどうぞとキャンパスへ入れてくれる大学などはありませんので、なかばあきらめかけていたので、二つ返事でOKを出しました。

 弥次さんに夏前から計画を練ってもらっていましたら、たいへん都合のいいことに、航空自衛隊のオープンハウス日程が変更になって春日と築城が1週間開いていたのが、5(土)、6(日)の連続になり、これはグッドとばかり、日本文理大もですが、福岡大分両県内の航空探訪=弥次喜多道中をやろうということになったわけです。

 回ったところは、表題の地図のとおり9箇所を2日半かけてめぐりました。

 

 

福岡・大分 航空探訪 1日目の2


(2) 福岡市東区貝塚公園のへロン 

 さて、喜多さんは山陽新幹線広島発下り1番列車のこだまで7時38分に博多駅到着、すぐに地下鉄で福岡空港へ入り、ロッキード シリュウス(リンドバーグ夫妻の訪日水上機)の展示模型を 探してあの長ったらしい第1〜第3ターミナルの1階と4階の隅々まで探し回り、肝心の羽田からのANA1便8時15分到着の弥次さんと行き違ってしまい、おまけに携帯電話を手すりにぶつけて電源が入らなくなり、あーあと溜息とともに途方にくれたのでありました。

 はぐれたら動かずにじっとしておれというのは、旅先での鉄則です。なんと、全日空機10分早着で到着した弥次さんがレンターカーの手続きまで済ませて探しに来てくれました。やれやれでしたね。

 土曜日の朝は、この西の大都会でも道路はすいすいでした。すいすいと行かなかったのがレンタカーに付いているカーナビゲーションでした。メーカーが違うと操作も画面も違うらしく、弥次さん画面を見ながら行き過ぎたり曲がったり、でも何とか東区の貝塚公園脇に到着しました。


 貝塚公園のデ ハビランドDH-114 ヘロン JA6159は健在でした。

 以前、東区役所へ消息を尋ねたら公園管理課の人が写真を添えて、しっかり管理していますと答えてくれましたが、今でもそのとおりです。

 最近塗り替えられたようで東亜航空ラインとJAナンバーもきちんとしております。胴体のドア(施錠)の隙間から機内をのぞきますと、座席や網棚もそのままで荒らされた様子はありません。

 しかし、カウリングの付け根あたりに腐食の破れも散見されます。どこか屋内で管理してくれるところはないでしょうか。

 なお、東亜航空カラーといっても、この機体が東亜航空で使われたことはありません。そのあたりの事情は福岡県A8101をご覧ください。

 ヘロンを写していたら、軽やかな爆音とともに太刀魚みたいに細長いQ400が福岡空港へアプローチして行きました。これを作った会社はもともとデ ハビランド カナダではなかったですかね。とすれば、ヘロンとも遠い親戚関係ですなあ。

 後日談その1  ロッキード シリュウスの模型はアイランド花どんたく(都市緑化フェア)へ展示されているそうです。リンドバーグと花は何か関係があるのですかね。 それにしても空港ビルの案内ガールは誰ひとりシリュウスの模型すら知りませんでした。もっとビル内のことを勉強しとけよ!

 後日談その2  携帯電話は、旅先で修理することもできず、かといって新しいのを買う気にもなれず、結局ないままに旅行を終えました。帰宅の翌朝手にとってみると、電源が入っていました。家人が電池を取り外してオマジナイを掛けたら復旧したというのです。

 


(付録) 37年前の板付

 喜多さんが福岡空港へ足を踏み入れたのは何と37年ぶりでありました。

 米軍板付基地が日本へ返還されて、運輸省直轄の福岡空港となったのが1972年4月1日ですから、その4年前の1968年4月でした。東亜航空福岡支店の橘高さんの招待で、コンベア240で広島から行きました。

 その時に自転車で飛行場周囲を一周し撮った写真を見てください。

 

 今回、空港ビルの展望台から周囲を見回して、まさに隔世の感とはこのことなりを実感しました。あの時は田園地帯でしたから。

 下の写真、まずい男が居て失礼ですが、見てもらいたいのは滑走路に向かう農業用通路です。離着陸が近づくと、 遮断機が降りサイレンだったか鐘だったか鳴らしていました。



 着陸するRF-4CとT-33A

 当時はPACAF(太平洋空軍)の所属でした。

 私が訪れた2ヵ月後の6月2日に板付のF-4Cが工学部の鉄筋校舎へ墜落し、政治的社会的大問題となりました。

 その場所が貝塚公園のすぐ隣であり、この旅行のスタートで、板付基地(福岡空港)と貝塚公園そばの九大キャンパスを見ながら、しばし思い出にふけったのであります。

 

 

 

 

 P-3Bは岩国のVP-19が数機飛来し、ダッチアンドゴーを繰り返していました。岩国飛行場オープンハウス展示記録参照

 

 

 

 民間機は、ボーイング727、コンベア880、ダグラスDC-6B、フォッカーF-27、YS-11、コンベアCV-240と色とりどりで、思えば航空界の一大変換期の真っ最中でした。

 

福岡・大分 航空探訪 1日目の3


(3) 航空自衛隊春日基地開庁46周年記念行事

  貝塚公園には、なにやら博覧会の幟があってアルバイトらしい人達が誘導していたのですが、公園内の植物イベントかなにかだろうと見過ごしていたら、後で小規模板工房さんからのメールで名島(なじま)で開催されているアイランド花どんたく(都市緑化フェア)へのシャトルバス乗車案内であったと知りました。しかも、空港ビル内で探し回ったロッキード シリュウスの模型が1/4ならぬ実物大で会場に展示されているという情報でした。ニュースフラッシュ268参照

 知っていれば、探訪計画の中に入れていたと思いますが、知らぬが仏で、弥次さんはカーナビを次なる目的の春日基地へセットして発進したのであります。

自衛隊春日は二つある

 春日市というのは福岡市の南に隣接していて市境などはぜんぜん分りません。福岡市がこの春日や大野城や大宰府などと大広域合併を目指していた25年位前に福岡市役所を訪問して調査したことがありますが、未だにそれが実現していないのを、今回目の当たりにしました。生活圏が完全に一体化しているとはいうものの、たとえば春日市は陸と空の自衛隊基地があって歳入にあまり不自由していないという事情なのでしょうかね。

 その二つの自衛隊ですが、弥次さんは春日にカーナビをあわせてその誘導どおり正門に到着しましたら、様子が非常におかしいのです。目付きの鋭い迷彩服の警備隊員らが胡散臭そうに寄ってくるのです。これも後で知ったことですが、ここ陸上自衛隊第4師団福岡駐屯地では、本日第7次イラク派遣部隊が福岡空港へ帰り、これから堂々の帰還行進が始まるという前だったのです。

 来賓やご家族を鄭重に迎えようと緊張している中へラフスタイルのレンタカーが飛び込んだのですから、機嫌の良い訳がありませんな。

 「失礼しました! 航空自衛隊基地へ行きたいのですが!」と言うと「まっすぐ1キロ」と突っけんどんな答えが返ってきて、恐縮したのであります。

 そのとおり1キロメートルほど南下しましたら航空自衛隊春日基地へ到着しました。こちらは開庁46周年記念日で、一般入場者もぞろぞろと歩き、まるっきり違う雰囲気でした。陸と空でなんで同じ日に重なってしまったのだろうとタイミングの悪いことです。

 ただし、我々は記念式典開会の10時30分に着きグッドタイミングでした。

 「皆さまあ、左手の上空をご覧ください。福岡管制塔の進入許可を待っていますが、間もなくT-4の編隊が参りますう」 女性隊員の搭乗員紹介アナウンスとともに脚下げの3機編隊が通過していきました。高度400メートルくらいでしょか。

構内展示機

 我々の目的はF-104とF-86Fです。売店や防空戦闘展示はことごとくパスしてナイキとともに置いてある両機のもとへ駆けつけました。

 マルヨンは新田原の第5航空団第204飛行隊のマーク、トリプルセブンのF-86Fはブルーインパルス塗装です。#777がブルーに居なかったことは皆さんご存知であり、ラッキーナンバーというような意味で塗装したのでしょうか。

 遠目で見たところいい状態で保管されているようでした。が、近くへ寄ってみるとタイヤがパンクして押しつぶされ、外板にも痛みの出ているところがありました。ハチロクのTACANアンテナがあったところはふさいであります。

F-104の前脚タイヤ

F-104の主脚

F-86の前輪タイヤ

F-86のTACANアンテナ跡

 展示場のすぐそばに資料館がありました。木造平屋の30坪くらいの建物です。近くの隊員に交渉してもらいましたが、今日のイベントの準備室か何かに利用して展示物が片付けてあるので、見学はご遠慮願いたいとのことでした。

 春日基地の飛行隊は福岡空港にCH-47とT-4を常駐させているので、ここにはヒコーキ歴史派マニアが期待するほどの資料はないのかもしれませんが、抜け目のない弥次さん喜多さん、超お宝を見つけ出さないとも限りません。

 翌日の築城基地でも資料館は施錠、去年の新田原基地でも施錠でした。普段は入れない自衛隊基地の資料館は、是非とも開放してもらいたいものです。

 

 

 

福岡・大分 航空探訪 1日目の4


(4) 甘木市 音楽館 航空機の部

 春日基地から次なる目的地は太刀洗でしたが、喜多さんの提案で音楽館へ先に行こうということになり九州自動車道と大分自動車道を走って、朝倉インターで降りました。喜多さんがなぜ先にと提案したのか理由を忘れてしまいましたが、実はこれが正解でした。

 レンタカーに付いているカーナビの地図が上に南、下に北を指し、どう操作しても天地逆にならないし、目次画面に戻そうにもそれもできないという不慣れのために、かなり山の中に入っていく音楽館を後で探していたら日が暮れていたかもしれないからです。

 朝倉の中華料理屋でラーメンと餃子で昼食を済ませました。 壁に油虫が這うているだけあって濃い味はなかなかのもでしたが、ご飯付きの餃子ラーメン定食が650円で、弥次さん喜多さんは飯を抜いてもらって餃子とラーメンだけにして勘定が700円‥‥? ? まあ、郷に入れば郷に従えか。

 共星の里音楽館への道順を書いていたら長くなるのでやめときます。初めて行く人は、電話なりで十分に確かめて国道386号からの入り口を間違わないようにしてください。

 地図上では、音楽館の場所は元の名称の梨選果場と書いてあるのがありますが、鉄骨の大きな建物で中をがらんどうにすれば、YSの1機分くらいは入る広さです。入場料600円

 まずは、2階からと言われて階段を上がりますといきなり天井から吊り下げられているKM-2が迎えてくれます。ナンバーを消してあるので、ネームプレートを精一杯拡大して撮ってみましたが、喜多さんの安物カメラでは、手が震えてこの有様です。外にあるもう1機のKM-2にもネームプレートを確認しましたが同じ結果です。  

 いいカメラと腕に自信をお持ちの方はぜひ挑戦して、海上自衛隊ナンバーを教えてください。なお、弥次さんはプレートを撮る気がなさそうでした。趣味は人それぞれですからやむをえません。

 その点、喜多さんはあらゆることに興味をもちたい八方美人タイプというべきか、YS-11の操縦席(名古屋航空宇宙館から移転 共星の里参照)のそばのガラスケースに次のものを見つけたのです。

 

                           DE-ICER TIMER
PNEUMATIC BOOTS a SUPERCHARGER INLET HEATERS 

 片主翼だけでもで5箇所に分割し、右上のスイッチで温風を送る時間サイクルを変えることができるという手の込んだ防氷ブーツの操作パネルです。4発エンジン3枚垂直尾翼からして、かのロッキード コンステレーションに相違ありません。

 同じ機体から取り外したものと思われるペデスタルもありますが、館長さんは「或る人から預かっているだけで、何の飛行機か知らない」ということでした。まさか、新潟から千葉県習志野市谷津遊園へ行って姿を消したスーパーコニーN1102の部品ではないでしょうね。

 

 

 このほかにも、丸一日居て調べてみたいようなジャンク品がさりげなく置いてあるのがにくいですが、時間に制約があるので、次へ。

 2階の手すりから見下ろして、あっと驚きの声があがりました。約50年の時を隔てる三菱製の戦闘機とヘリコプターが並んでいるのです。戦国自衛隊を思い出す。

 MH2000ヘリコプターは、耐空証明は切れておりトラックでここまで運ばれてきたのだそうです。三菱重工業から寄贈されたもので、機体とエンジン共に自社開発した野心的なヘリコプターでしたが、どうも失敗作になっているみたいですね。

 零式艦上戦闘機三二型 Y2-128は既によく知られています。名古屋航空宇宙館閉鎖に伴い、福岡航空宇宙協会へ返されたものの、扱いに困っていたので、館長が引き取り、いずれは筑前町が建設する施設へ大刀洗の九七式戦闘機と共に展示される予定です。

 ここへ来たときには、相当痛んでいたそうで、FRPで大掛かりな修理をしたそうです。館長さんが本業で建設機材も扱っており、クレーン車のコックピットなどはほとんどFRPでできているので、その技術を使ったということなのです。(大刀洗の九七戦でも触れる予定です)

 零戦にしろ、MH2000にしろ、我々がたどってきた曲がりくねる幅2〜3mの山道をどうやって運搬してきたのか全く不思議でしたが、帰りはこちらの道を走りなさいと教えられた道路なら、一部狭い箇所もありますが、トレーラーが通れる道幅はありました。最近のトレーラーは後ろにもハンドルが付いているそうで、こんな長尺物をどこへでも持っていけるのですね。

 館の外にあるKM-2とT-34A胴体の写真は共星の里で見ていただくとして、KM-2を載せているキャタピラーは本業の車の転用で、台風の時など移動させることができるというなかなかグッドアイデアの屋外展示です。

 

 さて、館長さんに頂いた名刺には、大刀洗平和記念館館長 渕上宗重と記してあります。あちらの方が本館のようで、さっそく大刀洗へ向かおうとしましたが、おっとどっこい、ヒコーキとは別世界の素晴らしい部屋で約1時間、渕上さんの情熱あるお話を聞くことになったのです。

 今日はそろそろ時間切れですので、レポートは次回までお待ちください。

 あ、大事なことを忘れていました。館内撮影は記念写真程度なら許されます。このたびは、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲に紹介済みということで特別に許可を頂いたものです。

 

福岡・大分 航空探訪 1日目の5


(5) 甘木市 音楽館 蓄音機の部

 お礼を述べて辞去しようとしていた弥次さんと喜多さんに、どうぞお入りくださいと招き入れられたのが館長特別室でした。音楽(おんらく)館という名称、入場券に書かれている「●歴史を語る貴重な音と映像機器の数々」というのは、館内のあちこちにある昔懐かしいゼンマイ手回しの蓄音器や初期の電蓄のことだろうとみていましたが、核心はこの特別室にありました。

エジソンの蝋管蓄音機

 喜多さんには、そちらの方の知識があまりないので、正しく伝えることはできませんが、渕上館長さんが操作しているのは百年前の正真正銘のエジソンの蝋管蓄音機です。蝋管もありますが、保存のためプラスチック製のものに移し替えた管で100年前の歌姫の朗々たるアリアを聴かせていただきました。 

高級蓄音機

 

 この蓄音機も高級品だそうです。左側の扉を半開きにして撮影しましたが、閉じた時は静かな夜想曲、開くと第5シンフォニーを想像させる深い音量となります。蓋に描かれた”HIS MASTER'S VOICE”のエンブレムにも限りないノスタルジアを感じます。

 ビングクロスビーの皇帝円舞曲を思い出しませんか。ラッパの前にあの犬を座らせてオーストリア皇帝に見せたシーン等々。

現代の最高級のアンプとプレイヤー

  マッキントッシュ275という真空管と(多分)デジタル機器を組み合わせた現在最高のアンプだそうです。右のプレイヤーのぴかぴかの真鍮製ピックアップは時価50万円とか。レコードはLP盤を二回りも大きくしたもので、はじめて見ました。

 それから出る音楽を、約5m離して置いてある時価100万円の2本のスピーカーボックスから聴きましたが、それはもう‥‥   アントンカラス(でしたかね)が奏でる第三の男は、ああこれが本物のツイターの音かと感動したのであります。

 

 感極まりすぎてしまたっかもしれませんが、誇張ではありません。見て、触らせて、聞かせてくれる博物館なんて、世界中にそうざらにはないと思うのです。お高くとまっている博物館がほとんどですからね。

 知れば教えたい、手に入れれば見せたい聴かせたい、というのはマニアならずとも人間の本能であろうと思います。渕上さんが次々に披露してくれた素晴らしい音の世界を、私も本能で書きなぐりました。ただし、これらは音楽館のほんの一部であり、渕上さんはまだ紹介したりないご様子でした。

 終わりに、航空機の蒐集についてもいろいろお話を伺っていますが、ここではオフリミットにしておきましょう。公的博物館では隠しませんが、自腹を切って運営されている施設については、設置者に敬意を表しそのご意思を尊重いたします。

 

 次回は、大刀洗平和記念館です。

 

福岡・大分 航空探訪 1日目の6


(6) 筑前町 太刀洗平和記念館

 甘木市の音楽館から筑前町(旧三輪町)の大刀洗平和記念館へは、車で約40分の距離です。喜多さんは、昨年JR鹿児島本線基山駅から三セクの甘木鉄道で訪れたので、その鉄道線路をマークしていたのですが、これだと思った線路には西鉄の小型電車が走っていました。

 甘木鉄道へ出るには西鉄線を越していかなければなりません。とにかく直進すれば、やがて左手にキリンビールの工場が見え、右手に大刀洗平和記念館の看板が現れ、曲がるとT-33Aが出迎えてくれます。


九七式戦闘機

 土曜日とあって、記念館にはツアーのおばさんが大勢入館していました。九七式戦闘機の前では、懇切丁寧な説明が行われていて
○ この飛行機が博多湾へ墜落したこと、
○ 引揚げて、一度プールで水洗いし、FRPで修理復元したこと
○ 左翼は本物で、右翼や胴体の肌はFRPであること
○ 搭乗員は助かっていたが、すぐに知覧へ向かい、別の九七戦で特攻出撃し散華したこと
○ 九七戦はノモンハンで無敵であったこと
○ 2門の機関銃弾がなぜプロペラに当たらないか等々
 おばさん達の顔は分ったような感心したような、でも盛んにうなずいておられました。

 この九七戦は、甘木のところで書いたように渕上さんの会社の技術者たちが復元に挑戦されたものです。

 まずFRPでカウリングを作ってみたところ、見事成功し自信を深め、エンジン班、主翼班、胴体班に分かれて梨選果場(現音楽館)でこのように見事な姿に復元されました。言うまでもありませんが、世界で唯一の九七式戦闘機現物です。

 喜多さんは、機体がビニール被覆されているものと思い込み航空史探検博物館の大刀洗(福岡県A8106参照)にもそのように 説明していました。しかし、それは海底の泥に埋まって腐っていた部分をFRPで新しく作ったのでそう見えたのであって、ビニール被覆ではありませんでした。

 FRPを使っているというのを臆することなく説明する潔(いさぎよ)さが実にうれしいです。ビニールクロス張りを羽布張り と説明させる某館のようなのが普通でしょうから。

 九七戦の製造元である某大手企業からは、機体に残っているもの以外の新しい鉄やアルミは使ってくれるなと申し入れがあったとか。

 なるほど、へたに新しい金属材料を使うと原型が損なわれるし、重量もかさむし、新旧の電磁的な障害で腐食が進行するかもしれません。その点FRPは素晴らしい着眼点でした。所沢の九一戦も東近江の零戦モドキも、もし復元するのなら参考になるのではないでしょうか。

 下の写真は、腐っていなかった左翼上下面で日の丸の色が鮮やかです。これを消さないために大変な苦労があったそうです。 日の丸を粗末に扱う呉市の連中と違って、渕上さん世代が如何に「国を、日の丸を」大切に思っているか、聞いていて涙が出ました。

 

 ついでながら、この機体の操縦者が渡辺利廣少尉と判明したのは、操縦席内にあった箸箱の名前からでした。そして少尉が知覧から出した手紙などとの突合せの結果100%間違いないと決定されたわけです。その説明資料がすべて展示されています。

 呉零戦はそこまでの検証をして断定看板を出しているのかなという思いが頭をよぎります。


栄12型エンジン

 航空史探検博物館の大刀洗(福岡県A8106参照)には、「97式艦上攻撃機のエンジン (詳細調査を失念)」とキャプションをつけた発動機写真を載せています。それで今回は詳細調査とばかり、近寄って写真を撮ろうとしたら、受付のご婦人から「この部屋だけは撮影禁止です」と注意され、 動揺して思わずシャッターを押してしまったものがピンボケ1枚だけありました。

 と言うわけで今回の写真を載せられませんが、説明板には「零戦11型・21型のエンジン 中島飛行機製 栄12型」と明記してありました。鹿児島県の甑(こしき)島の海から引揚げられたものということで、零戦の部品でも一緒に上がっていたのでしょうか。


鹿屋の零戦の片割れ

 そのエンジンと関連があるのかどうか聞きそびれましたが、大きな木箱があって「海底より引揚げられた○式戦闘機の破片 提供 海上自衛隊鹿屋航空基地」と書いた紙片が貼り付けてあります。 置いてある場所は、昔の大刀洗駅の地下通路へ降りる階段の所であり、撮影は可でした。木箱の中身は明らかに主翼の桁や小骨や外板です。

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  鹿屋航空基地からということは、加世田市と垂水市の沖合から引揚げた2機の52型を1機にして史料館へ展示している機体の余剰部品をここへ送ってきたものと考えられます。

 一般の人にはガラクタに過ぎませんが、いまだに構造その他をめぐって議論が展開されている零式艦上戦闘機のことですから、興味ある方はこの試料を借り出して詳細に調査されてはいかがでしょうか。

 ついでに、このような奇妙な文字が書かれたプロペラブレードが、ガラスケースの中にありました。
ゼロ ファイター プロペラ ソロモン ショートランド 1946/07/15 と読むのかな ?

 

 また、影撮禁止の部屋の天井近くの壁にはライト社1481 5年9月〒検査合格と刻印された木製プロペラがあり、甲式一型のものではなかったかと説明されています。その他、数え切れないくらい部品や模型があります。旧大刀洗駅舎が狭すぎて気の毒に思います。町営の施設が完成した暁にこれらをどうされるのか、たいへん気になるところです。

 撮影禁止の理由は、知覧から強く抗議を受けたからと言っておられました。戦没者遺品などを不用意に発表してご遺族の神経を逆なでしてはいけないというので、撮影を禁止する趣旨は理解できます。ただ、T-1Aのオーフュースエンジンなど遺品に無関係なものにまで、だめだと言われると、知覧から余程の圧力が掛かっているのだなと感じました。

 誰かが、知覧の職員に、大刀洗は大目に見ているじゃないかとか何とか馬鹿な引き合いを出して文句をつけたのでしょうか。世の中をどんどん狭くして、不自由にしてくれる手合いが多いのは困ったことです。

 

 以上で、第1日の視察日程を終了し、筑前町から行橋市めざして出発しましたが、そのまま走ると大分市まで行ってしまう所を、日田市の手前夜明交差点で弥次さんのとっさの判断で左折して山の中を北上し、夕刻5時日豊本線行橋駅のまん前のホテルに無事到着しました。晩飯は文福食堂という酒も肴も地物から送りまで何でもありというにぎやかな食堂で、本日の数々の幸運を祝して乾杯し、明日の築城航空祭の好天気を願いつつ飲みかつ食ったのであります。

2日目

二日目

 

福岡・大分 航空探訪 2日目の1


(7) 航空自衛隊築城基地 航空祭

 文福食堂のお酒でいい気分になって熟睡し、いつものように午前4時には目が覚めて、いつもならパソコンに向かうはずの喜多さんでしたが、ホテルではすることもなくテレビをつけてみると福岡県は見事な雨マークです。耳を澄ませると厚い窓ガラスを通して雨の音が聞こえてきます。

 6時まで待って、隣室の弥次さんへ電話し、電車はやめて車にしようと決めました。

 基地へは国道10号線ただ1本しかないため例年大渋滞だそうで、我々は、車を行橋に置いて、JRで築城まで往復することにしていた訳で、急遽予定変更です。これまた大正解でした。

 7時に発車して雨の国道を渋滞もなく南下し、音無橋交差点で左折を指示されて乗り入れたら、そこは滑走路北側の広い草地でした。本当にいとも簡単に到達しまして、もし傘をさして行橋駅へ行き、築城駅から再び傘をさして正門まで歩くことを想像しただけで、自動車のありがたみを痛感です。

 駐車場からは西鉄のシャトルバスに100円払って約10分、航空史探検博物館築城基地のページの2004年11月の状況で紹介しているF-1とT-33A用途廃止機がある臨時停留所まで連れて行ってくれます。

 降りて会場へ向かう道路沿いに刑務所の塀のようなコンクリート壁が続きます。何かと思ったら弾薬を処理するところで、念のため分厚い塀で囲ってあるわけです。そばには勿論小山のような(一時)弾薬庫も付属しています。

 さて、雨の航空機地上展示会場へ入ると、まずは築城のT-4と防府北のT-7がおり、F-1、F-4EJ、RF-4EJ、陸上自衛隊のUH-1JとOH-6が並んでいます。弥次さんと分かれた喜多さんはともかく展示機を全部カメラに入れておくべく、足早に写して歩きますが、滑走路に正対したエプロン中央部は、500メートルくらいのロープの後ろにたくさんの見物人が居るだけで展示機はひとつもありません。

 この写真でお分かりのように、基地側はF-1の最後のお披露目のために、搭乗してスタートから着陸して停止し、パイロットが降りてくるまでのすべてを正面から堪能してもらおうという配慮で空けており、雨がやんで飛行展示が行われるのを辛抱づよく待っている人々の群れでありました。

 非常に幸いにも、8時ごろには雨もやみ、曇天の中ではありましたが、F-1×F-2×F-15のオープニングフライトから始まって築城の地上に壮大な爆音を響かせながら低空での各種デモ飛行が一日中実施されました。

 喜多さんのカメラと腕では、こんな空模様での飛行写真はとても無理なので、その先の展示機、F-15J、F-2、C-1、E-2Cを写して格納庫とその付近の会場へ向かいました。

F-1と搭載物展示

F-15J油圧作動展示

F-15Jコックピット公開    オッパイ? 

F-1コックピット公開

菊花展 基地司令賞作品

F-86の展示架台

F-104の主脚支持方法

郵政民営化の先がけ

ここでハンディアップ

いたる所に用途廃止機

お客さんの点描 わざわざトイレ標識の下でラーメンをゆでなくても

 

 菊花展の行われている常設展示場で歴代の活躍機をつぶさに観察しました。築城基地のページにあるとおりで別段の変化はありませんが、支持架台などには工夫がこらされており、春日基地のパンク状態などと違ってここの機体は幸せです。

 築城へ来た目的のひとつは栄エンジンでしたが、いつも展示されているという格納庫では、F-1のさようならTF-40エンジンに座を譲っておりました。常設展示場の隣にある資料館へ行ってみましたが、鍵が掛かっており、ドアガラスから木製プロペラが見えるだけで栄の姿は確認できませんでした。

 入間にスカウトされたという噂を確認すべく、来賓受付に居る一番上級の将校さんに尋ねたら、確かに入間へ送ったと答えてくれました。

 それはいいとして、その答えにたどり着くまでに十数人の隊員に聞き、やむを得ず、忙しそうな来賓受付で聞いたのですが、基地のことや航空祭全体の様子が分る大会本部受付みたいなものがどこにも見当たらないこと、資料館を開放していないこと、側溝のグレーチングが雨で滑りやすく、喜多さんは3回も転んだことなど、文句をつけるとすればこのくらいですかね。

 F-1の退役記念を柱として十分な準備や予行演習を重ねられ、きょうは雨の中を大勢の隊員が献身的に奉仕されたことには多大の感謝の念が沸きます。ありがとうございました。

 

 午後1時過ぎにシャトルバスで駐車場へもどり、例によって道路へ出るまでに約40分という航空祭恒例渋滞をすぎて築城基地に別れを告げました。

 

 ところで、弥次さんの感想は、F-1の最後を撮りたくて是非にと来てみて、確かにたくさん飛んではくれたが、滑走から浮上するまでの鈍重な感じにはうんざりしたとのことでした。そもそもF-1という飛行機自体にもいくつかの問題がはじめからあり、F-1要員に回された航空自衛隊員は、それらを克服するために一種独特の雰囲気を持っているそうです。

 喜多さんも、F-1の対地射爆撃のときに、某隊員に話を聞いていましたが、F-1にあらず、A-1もしくはF/A-1と命名すべきを政治的配慮か何かで支援戦闘機の名前にされてしまったのだと。なるほど対地射爆撃はあれでいいのでしょうが、機動飛行では、F-15JとF-2の旋回半径にものすごく見劣りしましたね。

 ですから、弥次さんは、F-15の見事なベーパー写真が撮れたことをとても喜んでいる割には、F-1の話は少なかったですな。喜多さんは、F-2のズームアップ(最近はハイレートクライムというんですか)が中途で旋回してしまうのがなんとも物足りませんでした。雲高が低くても雲の中へ消えていくシーンを見たかったのです。怖くてできないのでしょうか?


11/25 オリエントさんから注意

 >雲高が低くても雲の中へ消えていくシーンを見たかったのです。怖くてできないのでしょうか?

に対してですが、基本的には可能です。しかし、安全を考慮しての取り決めだと思われます。仮に、雲中時において計器故障などによりバーティゴ(空間識失調)に陥らないとは言い切れません。飛行前ブリーフィングにより、雲の状態・雲高等を考慮しての安全確保です。通常飛行時においても、厚い雲は避けて飛行します。タービュランス、他機との衝突を避けるためです。

 それは安全に運航するための基本であります。事故を起こしてからでは遅いし、また観客の安全確保もありますし、事故が起きては来年は開催ができないということにもなりかねない時代ですから、その点をご理解いただきたいと思います。

佐伯から : なるほど、やや配慮に欠けた表現をしてしまったようです。映画ライトスタッフのチャックイエーガー操縦するところのF-104などの見過ぎでした。ご注意ありがとうございます。

 

 

 

福岡・大分 航空探訪 2日目の2


(8) 宇佐市城井1号掩体壕と一式陸攻用と言われる掩体壕ほか

 築城から椎田道路という高速に乗って走るといつの間にか国道10号になっているという不思議な道路で大分県に入り、宇佐市佐野交差点から左折して宇佐海軍航空隊跡方面へ向かいます。この辺はカーナビを注目していないと、ひとつ道を間違えたらものすごく迂回することにもなりかねないので要注意です。

 宇佐海軍航空隊跡の一帯は、 長洲国民学校のピアノでトロイメライを弾いて出撃していった特攻隊員の伝承をはじめとして有形無形の遺物がたくさん残っており、短時間の立ち寄りの結果を紹介するのは大変失礼なのですが、ともかく二人が見たものだけを記録しておきたいと存じます。

@ 

宇佐市城井(じょうい) 

宇佐市指定史跡 城井1号掩体壕

A 

宇佐市城井

城井1号掩体壕の中に保管されている栄エンジンとプロペラ

B 

宇佐市城井

城井1号掩体壕付近のモニュメント

C 

宇佐市上乙女 

一式陸攻用といわれている大型掩体壕

D 

宇佐市荒木から城井の道路

滑走路跡


@ 宇佐市城井 市指定史跡城井1号掩体壕


宇佐市制作の説明板を撮影


 150ヘクタールもの面積を有した宇佐海軍航空隊跡に残る10基の掩体壕の中から、市役所がこの壕を1号掩体壕として市史跡に指定しています。 
 1号というのは市が1番目に指定したという意味の符号で、海軍の名称ではありません。

 

 すぐ近くには、右のように農機具置き場に変身しているものも見られます。

 

 

A 城井1号掩体壕の中に保管されている栄エンジンとプロペラ

 大分県の沖合いで魚網にかかった栄エンジン(21型か?)で、最近、塩分腐食の部分を削り落として塗装したようです。そのため、典型的な星型複列14気筒エンジンの構造を詳細に見ることができる貴重な史料になりました。各部クローズアップ写真がOGOMENさんのSky Friend Oitaにあります。

 壕の内壁をみますと仰向けに寝てコンクリートを固めたらしい靴底の跡がくっきりと残っています。.人々を酷使してとにかく頑丈なものができればいいという戦時掩体壕思想の痕跡に胸が締め付けられます。鉄筋の量を減らして人々を不安の淵に追い込む現代建築思想も、人間を軽視する点では同じではないでしょうか。

 なお、床に白く塗ってあるのは、零戦の平面形で見学者に壕の大きさと比較してもらうためだそうです。

 

B 城井1号掩体壕付近のモニュメント

 

C 一式陸攻用といわれている大型掩体壕

 海軍の練習航空隊として開設された宇佐飛行場ですが、ご多分に漏れず戦争末期には特攻出撃基地になり、殊に有名なのは桜花とともに配置された一式陸攻でした。

 弥次さん喜多さんは、その位置について1号掩体壕のところで聞かされ、指示された方向に簡単に見つかるものと思って歩きましたが見当たらず、あきらめて車で県道269号線へ戻ろうとしていて、助手席の喜多さんが偶然その先に大きな建造物を見つけて、あれだ!と叫びました。1号掩体からは269号線をはさんで直線距離で北北西約1000メートルのところです。

 民家が壕に接して建てられ、内部は倉庫になっています。

 T字型の後部には通気口らしい窓と壁を支えるような三角の構造物が二つづつあります。ここもこぶし大の小石が露出する荒い作りで、余ったのを捨てたためか、周囲の畑には石ころが方々に積んであります。

 

 民家があるため、あまり近寄って調べることができなかったので、写真に写っている物干し竿の長さなどから、およその寸法を想定してみました。確かに一式陸攻が入る大きさであり、一式陸攻用掩体壕と断定しても差し支えないように思います。単発練習機用の1号掩体壕と比べてみてください

弥次さん 「喜多さんや、もっとましな絵を描けないのかいな」
喜多さん 「工業高校のときは製図が一番苦手で、殆どは友達に描いてもらって出していたなあ」
弥次さん 「へー、喜多さんは工業出身だったのー」
喜多さん 「ばれたか。でもね、解析T、解析U、幾何、電磁理論、製図がぜんぜんだめで、電気科のツラ汚しといわれたもんだ。おかげで、その後の人生はオール文系、行政職さ」

 

D 滑走路跡

 宇佐で検索すると空襲後に米軍機が撮影した写真が見られます。滑走路は基地の西側です。幅80m、長さ1800mで、戦後そのコンクリートを剥いで石垣に利用したりしていますから、かなり大きく分厚い舗装であったことが分ります。一式陸攻用ということでしょうか。

 滑走路跡は幅員をせばめて道路となり、有志が1本づつ寄贈した石柱がずらっと並んでいます。空からもよく見えるでしょうからセスナやパイパーの軽飛行機なら不時着陸できそうです。ただし、車と衝突する覚悟があればの話ですが‥‥。

 

 

 

福岡・大分 航空探訪 2日目の3


(9) 豫科練資料館の栄エンジンなど

資料館は、左の建物の階下

 豫科練資料館は、JR大分駅の南の上野丘という小高い住宅地にあります。館内へ入るには呼び鈴を押せと掲示してありますが、訪れた時刻には押してもどなたもいらっしゃらないようでしたので、外のエンジンなどを見ただけで辞去しました。

栄21型エンジン


豫科練乃碑

重巡洋艦大淀をかたどった黒松盆栽

 一個人の力で資料館を開き運営していくのは大変なことであろうと思いました。館長さんのお話しを伺うことができなかったので、感想はそれくらいにとどめておきます。詳しくは開設者の川野浩二氏のホームページ豫科練資料館をご覧いただきたいと存じます。


 午後5時に駅前のホテルにチェックイン

 7時に行橋を出発して、築城、宇佐を経て大分市まで100キロメートル以上走ったでしょうか、朝方や途中で雨に逢いはしたものの、大したことはなく、これだけ多くの航空関連を見学してまだ陽の高いうちにホテルにはいることができるとは、弥次さんの事前準備とカーナビのおかげです。

 笑笑(わらわら)という現代風居酒屋では、疲れも手伝って大声で激論をかわすというバラエティに富んだ場面もありましたが、ホテルロビーのパソコンで、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲を閲覧(?)し、アクセスカウンターが着実に増えているのを感謝し、安心して最後の夜を迎えたのであります。

3

三日目 

福岡・大分 航空探訪 3日目の1


(10) 日本文理大学工学部航空宇宙工学科

 日本文理大学のキャンパスは、10号国道から分かれてJR日豊本線と並行して走る国道197号線のJR大在(おおざい)駅を左にに見るところから右折し、しばらくのぼった丘陵地にあります。

 正門で許可証を貰って航空宇宙工学科へ向うとあの琵琶湖で活躍していた双フロートのセスナスカイワゴンが出迎えてくれます。

セスナ185 JA3165 元関西航空機

1975/09/04 抹消登録

別府富士見病院を経て日本文理大へ

 弥次さんがこれを見なさいと教えてくれたのが、フロートの後端にある舵です。ヒンジで上下するようになっており、水上で滑走する時は下へ降ろして操舵します。船舶の舵と同じです。

 水上でもステアリングと呼ぶのかどうか知りませんが、操舵はラダーペダルを踏んで、ワイヤーにより方向舵と連動して動く仕掛けになっているものと思います。

 喜多さんは、方向舵との両効きで自由自在に方向を変えることができそうな、ちょっと操舵してみたいような魅力を感じました。日本でフロートの舵が見られるのはここだけではないでしょうか。

 水上機の後ろに太陽光を浴びている建物が航空宇宙工学科の教室(1階はエンジンを収納してある実験室)で、左の大きく扉を開けてあるのが格納庫(下写真)です。

 本多恒雄先生のご案内で、格納庫内から見学を開始しました。

 いままで写真やOGOMENさんのホームページ等で抱いていたイメージとはかなり違いますし、MU300の与圧試験胴体とか、アナログ時代の747操縦シミュレーターや甘木音楽館に実機があった三菱MH-2000ヘリコプターのモックアップなど初見のものもありました。

 それらは、一覧にして航空史探検博物館の日本文理大学ページへ更新しておきましたので、ここでは個々の解説は省きます。

 

F-86Fは身体を実習に提供

 喜多さんがここへ来た目的のひとつにノースアメリカンF-86Fのシリアルナンバー探しがありますが、胴体に3種類の異なる数字を見るに及んで今となってはギブアップせざるをえません。

 数字や文字は書き換えられた形跡もあります。なぜそのようになったのか不思議です。F-86Fをリンドバーグ病院院長の依頼で手に入れた別府市セスナ薬局のご主人は、幸田さんに岩国から運んだと語ったそうです。リンドバーグ病院前へ飾られたのは1981年ごろですから、その頃岩国にF-86がいるわけはなく、これまたどういう経路で払い下げに至ったのか も不思議です。

 ただし、そんなことにはお構いなくこのハチロクは教材として大いに貢献しております。

 主翼日の丸付近の濃い色の外板は修理実習によるものです。“02というのは2002年度の卒業生が手がけたという記念の表示です。胴体にもたくさん見られます。我がハチロクは身を挺して整備教育に尽くしているわけで、つまらぬ経歴探しなどやめなさいと叱ってくれているようでした。

 U字型の取っ手は、リンドバーグ病院へ展示するときにワイヤー掛けか何かのために桁に取り付けたものだろうということです。

 

 

エンジン類

 エンジンを収納してある部屋は、詰めるだけ詰めてあるような感じで各種発動機が置いてあります。ジェット機のスターターエンジンというボーイング502ガスタービンコンプレッサーなどというものもあります。

 昔、フレンドシップが広島に降りられなくて岩国基地へ回ったときには、このエンジンを岩国まで運んで始動させたそうです。APUという便利なものを積んでいないジェット機は今でもご厄介になっているはずです。

 なお、喜多さんにはエンジンについての紹介は少々無理なので、日本文理大学ページには代表的な三つのエンジンだけ載せていることをお断りしておきます。来年の学園祭でこの部屋が公開されるようなら、どなたか1時間くらいねばって全機種を詳しく調べてきていただくようお願いします。

 

屋外展示機

 丘陵地の広いキャンパスだけあって、航空宇宙工学科の横には、斜面を利用してギリシャの円形劇場を模した集会広場が設けられています。その後方に、以前から展示されているノースアメリカンSNJとビーチクラフトC18Sがいます。

 本多先生は「もう展示というよりもモニュメントというべきものです」と話されましたが、その意味は、あたかも飛べるようないい状態に見せかける姿からかけ離れてしまって、度重なる台風などのために、荒れてしまっているということです。

 しかし、塗装だけは見苦しくないように繰り返されているし、動翼などが吹き飛ばないようにしっかりと固定されていて、ある程度の知識を持つ人からみれば、テキサンとツインビーチを調べる対象として十分耐えられるものであると思われます。喜多さんは、自衛隊基地内ですら面倒を見て貰えない展示機があることを考えれば、ここでは暖かく守られていますよと申し上げておきました。

 

パイパー機は県央空港へ 

 本多先生の悩みは、学生に発動機の運転をさせることができないということです。市街地にある学校に共通する問題ですね。

 そこで、日本文理大は豊後大野市にある大分県央空港日本文理大県央空港エクステンションキャンパスを設置しています。本部から自動車で約1時間の距離です。

 以前格納庫にあったパイパーPA-28 JA3296によって、だいたい2週間に1回試運転やトラブルシュートを授業として実施しているそうです。

 

 日本文理大学には設計コース、整備コース、システムコースがあって、それぞれに専門技術や資格を身に付けよう、付けさせようと学生も先生もがんばっております。喜多さんが航空専門の学校を訪問したのは、東京都立航空高等専門学校に続いてここが二つ目ですが、航空関係の基礎教育が充実しているのはたいへん喜ばしいことだと思います。

 日本は科学立国-工業立国でしか生きていかれないという言葉は、高度経済成長期によく聞かされましたが、それを死語にしてはいけないと、強く思いながらキャンパスを後にしました。

 お忙しい中時間を割いていただいた本多恒雄先生と、ご紹介いただいた見森 昭先生に厚くお礼を申し上げます。

 

福岡・大分 航空探訪 3日目の2 完結


(11) 大分ホーバーフェリー

 このところNHKの朝おなじみの由布岳に源を発する大分川が大分市内に流れ込み、別府湾に注ぐ河口に大分空港と市内を結ぶ大分ホーバーフェリー株式会社の乗船場があります。

 弥次さん喜多さんの最終コースである日本文理大→大分駅前の途中になるので、ヒコーキマニアとしてプロペラでつながるホーバークラフトを見逃す手はないと国道197の舞鶴橋手前で右折し、大分空港跡地碑のある総合運動公園を過ぎて、乗船場へ寄り道しました。

 ホーバーのりばという建物は空港ビルとは趣のちがう小さなもので、道路は自家用車でふさがれ、河川敷堤防につながるちょっとした空き地には客待ちタクシーがびっしりと張り付いています。この異様な光景の原因は、ちょうど伊丹から到着のANA便の客をのせたドリームアクアマリン号が11時15分着という時間であったためでした。

 それで我々もこれは幸運とばかり、タクシーの間を縫って大きなスベリのそばまで行き、ドリームアクアマリン号のアプローチからお客の下船までつぶさに見学したのです。

 520馬力のジーゼルエンジン4基の轟音と壮大な波しぶきをあげて、時速90kmで別府湾を横切ってきドリームアクアマリン号は、あっという間にスベリを揚がって停船し、エンジンを停めたと思う間もなくタラップ車がするすると出て行って、客が降り始めます。

 旅客機が長いタキシングの後、マーシャラーの合図で停止し、ボーディングブリッジが伸びてきて、ドアが開くまでのあの長い時間に、何ともいえぬ無駄を感じてしまう空の旅からみたら、まったくあっけないものです。

 片道25分間で2750円はそんなに安くないですが、喜多さんがもし大分市民なら、やっぱりこの便利な乗り物を使わざるを得ないだろうなあと思いました。

 ホーバークラフトについては、会社の公式ホームページその他にいろいろ紹介されていますので、そちらをご覧いただきたいと存じます。

 

(12) エピローグ

 ホーバークラフトがスベリを揚がってくる時に霧のように降り注ぐ海水を浴びた弥次さん喜多さんは、大友宗麟が洗礼の儀式を施してくれたのかもしれないなどと、訳のわからない冗談を口にしながら、一路大分駅前へ車を飛ばし、喜多さんはここで別れを告げ日豊本線、山陽新幹線と乗り継いで午後3時広島駅に無事帰り着きました。

 弥次さんは、そのまま大分自動車道へ乗って、平均時速○○○キロメートルで鳥栖経由福岡へ、3日間お世話になった三菱コルトを返還し、羽田へと再び全日空便の客となったのであります。

 わずか3日間の旅でしたが、ここまでお読みになってお分かりのように、大変に欲張った探訪でした。多少、でたとこ勝負のハンドルさばきもありましたが、そのすべてが吉とでる幸運にも恵まれました。

 この旅でインターネット航空雑誌ヒコーキ雲の内容がより充実することは間違いございません。喜多さんにとって、それほど実り多いものでした。

 ご協力頂いた皆さん、何かとご教示頂いた皆さん、福岡と大分のおいしいお酒と食べ物に感謝します。そして、道中安全運転で全コースを走り抜けてくれた弥次さんに最大の感謝の言葉を捧げます。

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