甘木市の音楽館から筑前町(旧三輪町)の大刀洗平和記念館へは、車で約40分の距離です。喜多さんは、昨年JR鹿児島本線基山駅から三セクの甘木鉄道で訪れたので、その鉄道線路をマークしていたのですが、これだと思った線路には西鉄の小型電車が走っていました。
甘木鉄道へ出るには西鉄線を越していかなければなりません。とにかく直進すれば、やがて左手にキリンビールの工場が見え、右手に大刀洗平和記念館の看板が現れ、曲がるとT-33Aが出迎えてくれます。
九七式戦闘機
土曜日とあって、記念館にはツアーのおばさんが大勢入館していました。九七式戦闘機の前では、懇切丁寧な説明が行われていて
○ この飛行機が博多湾へ墜落したこと、
○ 引揚げて、一度プールで水洗いし、FRPで修理復元したこと
○ 左翼は本物で、右翼や胴体の肌はFRPであること
○ 搭乗員は助かっていたが、すぐに知覧へ向かい、別の九七戦で特攻出撃し散華したこと
○ 九七戦はノモンハンで無敵であったこと
○ 2門の機関銃弾がなぜプロペラに当たらないか等々
おばさん達の顔は分ったような感心したような、でも盛んにうなずいておられました。 |
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この九七戦は、甘木のところで書いたように渕上さんの会社の技術者たちが復元に挑戦されたものです。
まずFRPでカウリングを作ってみたところ、見事成功し自信を深め、エンジン班、主翼班、胴体班に分かれて梨選果場(現音楽館)でこのように見事な姿に復元されました。言うまでもありませんが、世界で唯一の九七式戦闘機現物です。
喜多さんは、機体がビニール被覆されているものと思い込み航空史探検博物館の大刀洗(福岡県A8106参照)にもそのように
説明していました。しかし、それは海底の泥に埋まって腐っていた部分をFRPで新しく作ったのでそう見えたのであって、ビニール被覆ではありませんでした。
FRPを使っているというのを臆することなく説明する潔(いさぎよ)さが実にうれしいです。ビニールクロス張りを羽布張り
と説明させる某館のようなのが普通でしょうから。
九七戦の製造元である某大手企業からは、機体に残っているもの以外の新しい鉄やアルミは使ってくれるなと申し入れがあったとか。
なるほど、へたに新しい金属材料を使うと原型が損なわれるし、重量もかさむし、新旧の電磁的な障害で腐食が進行するかもしれません。その点FRPは素晴らしい着眼点でした。所沢の九一戦も東近江の零戦モドキも、もし復元するのなら参考になるのではないでしょうか。
下の写真は、腐っていなかった左翼上下面で日の丸の色が鮮やかです。これを消さないために大変な苦労があったそうです。
日の丸を粗末に扱う呉市の連中と違って、渕上さん世代が如何に「国を、日の丸を」大切に思っているか、聞いていて涙が出ました。
ついでながら、この機体の操縦者が渡辺利廣少尉と判明したのは、操縦席内にあった箸箱の名前からでした。そして少尉が知覧から出した手紙などとの突合せの結果100%間違いないと決定されたわけです。その説明資料がすべて展示されています。
呉零戦はそこまでの検証をして断定看板を出しているのかなという思いが頭をよぎります。
栄12型エンジン
航空史探検博物館の大刀洗(福岡県A8106参照)には、「97式艦上攻撃機のエンジン (詳細調査を失念)」とキャプションをつけた発動機写真を載せています。それで今回は詳細調査とばかり、近寄って写真を撮ろうとしたら、受付のご婦人から「この部屋だけは撮影禁止です」と注意され、
動揺して思わずシャッターを押してしまったものがピンボケ1枚だけありました。
と言うわけで今回の写真を載せられませんが、説明板には「零戦11型・21型のエンジン 中島飛行機製 栄12型」と明記してありました。鹿児島県の甑(こしき)島の海から引揚げられたものということで、零戦の部品でも一緒に上がっていたのでしょうか。
鹿屋の零戦の片割れ
そのエンジンと関連があるのかどうか聞きそびれましたが、大きな木箱があって「海底より引揚げられた○式戦闘機の破片 提供 海上自衛隊鹿屋航空基地」と書いた紙片が貼り付けてあります。
置いてある場所は、昔の大刀洗駅の地下通路へ降りる階段の所であり、撮影は可でした。木箱の中身は明らかに主翼の桁や小骨や外板です。
鹿屋航空基地からということは、加世田市と垂水市の沖合から引揚げた2機の52型を1機にして史料館へ展示している機体の余剰部品をここへ送ってきたものと考えられます。
一般の人にはガラクタに過ぎませんが、いまだに構造その他をめぐって議論が展開されている零式艦上戦闘機のことですから、興味ある方はこの試料を借り出して詳細に調査されてはいかがでしょうか。
ついでに、このような奇妙な文字が書かれたプロペラブレードが、ガラスケースの中にありました。
ゼロ ファイター プロペラ ソロモン ショートランド 1946/07/15 と読むのかな ?
また、影撮禁止の部屋の天井近くの壁にはライト社1481 5年9月〒検査合格と刻印された木製プロペラがあり、甲式一型のものではなかったかと説明されています。その他、数え切れないくらい部品や模型があります。旧大刀洗駅舎が狭すぎて気の毒に思います。町営の施設が完成した暁にこれらをどうされるのか、たいへん気になるところです。
撮影禁止の理由は、知覧から強く抗議を受けたからと言っておられました。戦没者遺品などを不用意に発表してご遺族の神経を逆なでしてはいけないというので、撮影を禁止する趣旨は理解できます。ただ、T-1Aのオーフュースエンジンなど遺品に無関係なものにまで、だめだと言われると、知覧から余程の圧力が掛かっているのだなと感じました。
誰かが、知覧の職員に、大刀洗は大目に見ているじゃないかとか何とか馬鹿な引き合いを出して文句をつけたのでしょうか。世の中をどんどん狭くして、不自由にしてくれる手合いが多いのは困ったことです。
以上で、第1日の視察日程を終了し、筑前町から行橋市めざして出発しましたが、そのまま走ると大分市まで行ってしまう所を、日田市の手前夜明交差点で弥次さんのとっさの判断で左折して山の中を北上し、夕刻5時日豊本線行橋駅のまん前のホテルに無事到着しました。晩飯は文福食堂という酒も肴も地物から送りまで何でもありというにぎやかな食堂で、本日の数々の幸運を祝して乾杯し、明日の築城航空祭の好天気を願いつつ飲みかつ食ったのであります。