人影がない写真というのを立証するために探しましたが、標準レンズカメラ1台しか持たず、腕は未熟、おまけにエスコートさんが私から離れないので、もったいない話しですが、ろくな写真を撮っておりません。しかし、F8EクルーセイダーにA4Cスカイホーク たまらなく懐かしいです。厚木のF-4BファントムU(VW)がはじめてお目見えした年でもあります。C-130の向うに今はないカマボコ型の兵舎が並んでいます。
関連する思い出
1965年5月16日、恒例の岩国基地三軍の日で、広島航空クラブの特例早期入場に東京や大阪からのマニアが10人くらい参加しており、ついでなら、広島市内に帰ってからミーティングをやろうじゃないかというので、飲食店に集合して、確か中華料理屋だったと思うのですが、わいわいがやがややりながら飯を食いました。
そこまではよかったのです、が‥‥ 夕刻のテレビが朝日新聞社機が広島空港そばの入江に墜落炎上したというニュースを流しだし、私は思わず 「しまった!広島空港へ行くべきだった!」と叫んだのでした。3人の犠牲者を出した事故を、単なるマニアの好奇心だけでとらえてしまった佐伯の叫びに対して、冷たい視線が向けられたのは当然です。早朝からの岩国行きやミーティング会場探しなどで疲れ切っていたとはいえ、広島航空クラブの運営と機関誌発行が全国的に認められつつあったことの驕りと慢心が言わしめた若さの言葉でありました。
そのことが、未だに忘れられないのと、もう一つ、航空情報編集部に入っていた藤田勝啓さんが 「ここの支払は、酣燈社が持ちますから」と全員の飲食代をタダにしてくれたことも、へー、平記者にそんな権限を持たしているのかと驚いたことも併せての記憶です。
あの頃はマニア目線の小藤田でしたよね。大藤田は藤田俊夫さんのこと、彼も当時はマニア目線の大家でした。 |
3 会員が全国に広まり広島での活動に限界
さて、これは航空情報1964年7月号にのったものです。これを見て東京をはじめ各地から広島航空クラブへ入会申込が来るようになりました。サングンが引き金になったことは確かです。
私は次の年も、その次も基地へ手紙を書き、広報部の日系の通訳の方と連絡をとって早期入場に努めました。
ところが、我がクラブの早期入場が知れ渡ったためか、別ルートで交渉して入るグループが現れ、年々、その数は増える一方で人影のない機体写真を撮ることは無理になるし、基地側もいい顔をしなくなりました。開門時間も10時、9時と次第に早めてきたこともあり、私は何年か後に早期入場を打ち切りました。甘い汁は長続きしないという見本でした。
一方、広島航空クラブの運営は、全国的な会員の増加により、広島だけの例会は困難になるし、だいいち広島という固有名詞そのものが邪魔になります。また、会員増で郵便発送などの事務量と経費が増加する反面、会費未納者が増えたりして、独り事務局の私の体がついていかなくなってきます。
そこから導き出されるものは、各地で同じような悩みを抱えているクラブ活動の人たちと連携していこう、つまりは負担を分かち合っていこうという方向です。
各地の情報を一本化して、まずは統合機関紙を発行することにしてはいかが、というわけです。
ここで、戦後の初期における写真記録・史資料派マニアのクラブ活動の状況を第一世代と第二世代に分けて振り返っておきたいと思います。
4 機関誌に見る写真記録・史資料派マニアのクラブ活動の第一世代
戦後の日本で、史資料や写真記録に重点を置くヒコーキマニア活動はつばさ会及びMach AHubをもって嚆矢(こうし)とするものと考えております。もちろん、仲間的な組織は各地にあったかもしれませんが、その足跡をたどれるのは機関誌を発行していた両団体だけであり、これを第一世代としておきます。
(注) 航空模型界では、温知会(後に東京ソリッドモデルクラブTSMCに発展、現在も活動中)や大阪の彩雲会(現在も活動中)がその老舗であると思います。
(Uコン機など飛ばす方の模型は除く)
@ つばさ会 発足の推定1952(昭和27)年〜終期不明
つばさ会は 、秋本実さん、藤原洋さん達によって結成され1950年代に「つばさ」という機関誌を出していました。
「つばさ」はB5判謄写印刷で、秋本さんと藤原さんがガリを切って、専門業者に印刷製本をさせているようで、黒赤青三色刷りの表紙など、当時のマニアものとしては高度なもののように思えます。
航空再開直後の機関誌とあって、せきを切ったように旧日本軍機の記録や最新の外国機の情報が誌面に盛られており、誤解を恐れずに言うなら、秋本実さんらが後に雑誌書籍に書きまくる内容は、既に「つばさ」の中に芽を出しているように思われます。
また、これまた航空再開によって息を吹き返した飛行機模型好きの人による組織、温知会や横浜ソリッドモデル同好会、更には次に述べるMach AHubとの交流もありました。
A Mach
Club 発足の推定1953(昭和28)年〜終期不明
Mach
Clubは、上甲昇さんを代表とする全国組織でB5判謄写印刷の機関誌「AOZORA 蒼空」や月報を発行していました。
「AOZORA 蒼空」は、東北、中部、関西、中国、九州の各支部がそれぞれガリ版刷りで出来上がった記事や図面を上甲さんのいる愛媛県の本部へ送り、本部がそれを綴じ込んで目次と表紙を付け会員へ発送するという形式でした。そのため、B4版二つ折りの体裁だけは整っているものの、文字は各支部バラバラ、ページ番号も目次には一応振ってありますが、本体にはページ番号が入っていないというユニークな冊子でした。
内容は、「つばさ」と大同小異と言えますが、戦時中に航空機に関与していた人の寄稿が多いのも特徴のひとつで、雑誌丸の戦記物もどきもありますが、戦後7〜8年でまだ記憶も確かでしょうから、その後の創作くさいものよりは余程信頼性があるのではないでしょうか。
B 「つばさ」と「AOZORA 蒼空」
「つばさ」と「AOZORA 蒼空」の一部をインターネット航空雑誌ヒコーキ雲において複写しています。その表紙と目次を別紙T62に掲げましたので、興味のある方は佐伯までご照会ください。
5 機関誌に見る写真記録・史資料派マニアのクラブ活動の第二世代
上記第一世代が何時まで続いたのか、今のところ不明です。インフレ進行で経済的に個人の手に及ばなくなりだしたり、卒業や人事異動で次第に面倒を見きれなくなったた等が原因で自然消滅していたのではないかと推定するに留めておきます
第一世代に次いで、1960年頃から1970年頃へのおよそ10年間を、史資料や写真記録に重点を置くヒコーキマニア活動の第二世代と位置付けてみますと、私の知る限りにおいて、次の13団体、つまり13種の機関誌(会報)が生まれています。
名称 |
略称 |
機関誌 |
設置場所と主要メンバー |
東京スカイフォトサークル
↓
日本航空史研究会 Japan Aero Historical Society |
TSPC
JAHS |
The Hawk Eyes
JAHSニュース Air Cronicler |
東京都 藤田俊夫、藤田勝啓
、藤原洋、賀張弘道、関正一郎、荘文平、松ア豊一、野澤正、富田肇、杉浦博、下郷松郎、上田新太郎、山内秀樹、幸田恒弘
(JAHSは、現行のJAHSとは関係ありません) |
TOKYO AERO CAMERA AHUB |
TACC |
TACC会報 |
福井正夫 戸田保紀 |
上昇クラブ(後に)AIR JAPAN |
|
AIR JAPAN |
愛媛県 上甲昇 浜遊孝行 |
関西航空機写真クラブ |
KAPC |
The Cormorant Eyes |
大阪府 上田新太郎、山内秀樹、
中井潤一、倉本昌章、佐藤雅美 |
広島航空クラブ |
HAC |
広島航空クラブニュース |
広島県 幸田恒弘、佐伯邦昭 |
岡山航空友の会 |
|
岡山航空友の会ニュース |
岡山県 水川進 |
名古屋航空マニアクラブ |
|
航空マニア |
愛知県 下郷松郎、森脇啓忠、安田政俊 |
Japanese Aero Historians Society |
JAeHS |
ラム ジェット Pictorial Air Report |
埼玉県 長谷川明 |
The Flyinng Frogs AHub |
FFC |
FFC NEWS |
東京都 長久保秀樹、堀田恒夫 |
Mickey News |
|
Mickey News |
石川県 大島幹夫 |
仙台航空クラブ |
|
みちのくの空 |
宮城県 |
空のむかしばなし |
|
空のむかしばなし |
東京都 大脇克二 |
これらが続々と生まれた背景には、酣燈社が1953(昭和28)年に発足させた航空情報友の会ARCがあると見ています。電話が全家庭に普及しておらず、もちろんインターネットも無い時代には、航空情報が公開している友の会の名簿(氏名住所職業)を頼って文通することが多かったからです。(1-1参照)
また、写真機材が普及して写真店を頼らずに自宅でDPEをするマニアが増えてきまして、その分たくさんの写真を撮り、内外のヒコーキマニアとネガやプリントを交換するようになり、そうして得た情報を抱え込まないで公開したくなるのもマニアの必然的な心理であり、
このような機関誌発刊を後押しすることになります。
なお、航空情報友の会ARCは、誌上からその文字が次第に消えていき、いつどうなったのか、廃止の社告も見ておりませんので、自然消滅してしまったみたいです。本業の片手間で会員数何千人の組織を維持することなど所詮無理だったのでしょうが、あのまま発展しておれば、新しいマニアを次々に受け入れて日本における一大ヒコーキマニア組織になっていただろうと思うので、今にしてみれば惜しいことです。
・ 三号機関誌の悲哀
しかし、第二世代においても内情はいずこも大変に苦しいものでした。その多くの機関誌が数号で息切れし、いつの間にか消滅しております。私は「三号機関誌」と揶揄していますが、華々しい設立目的を謳いあげて発足した団体のほとんどが機関誌を2〜3回出したところでつまづいているからです。
その理由の大半は、号を追って質と量を高めていこうとする意欲があればあるほど、それに比例して降りかかってくる時間、労力、経費の増大の問題に抗しきれなかったことだと思います。組織を名乗っても、実態は一人か二人の無報酬の家内工業みたいなもので、いかに苦労してみたところで、こんな趣味に家人の誰も手伝ってはくれませんから。
広島航空クラブニュースも事情は同じでした。何とか頑張って「三号機関誌」は免れたものの、第20号あたりから広島でも何とかしなければいけないという雰囲気になってきていました。
実は、機関誌を20号以上も継続発行していることと、厚木と並ぶ米海軍海兵隊航空の情報源である岩国をひかえていることと相まって、東京、名古屋、大阪などの有力メンバーが広島航空クラブ
へ入会してくるようになり、その重みものしかっかてきていたのでした。
その打開策が全国組織への展開でした。各地の活動を「三号機関誌」で終わらせないようにしよう、お互い共倒れしないうちに合同しようではないという訳で、その運動を広島から起したのです。
1-3へ続く 1-1へ戻る
|