○ 戦時中に航空青年が買い集めた航空機写真 「戦時中」というような言葉を使う世代は概ね後期高齢者に区分けされて、早く死ねと言わんばかりの政治行政ですが、もっと大事にしてあげないと、こういう写真が死蔵されたままになってしまいます。
その「戦時中」に海軍工廠で働いていたかつお青年の趣味はヒコーキ、本屋へ入っても高峰秀子や轟由起子や李香蘭のブロマイドには目もくれず、もっぱら航空機の写真を買い集めていたそうです。
裏に貼ってある東京府価格査定委員会なる検印によると1枚が16錢、ビール1本が1円30銭(19年の公定価格)の頃の話です。
写真は陸軍と海軍の公認で、当時の新聞や雑誌に載せられており、「どっかで見たような」ものもありますが、いずれも
報道班員によるプロもしくはセミプロによる撮影でしょうから、申し分のないカメラアングルです。機密のところを隠したり全体の鮮度を落としてある点が残念ですが、オリジナルは、太平洋戦争中に著名画家に画かせた油絵と同等の価値があると言え
るのではないでしょうか。「戦時中」も捨てたものではありません。
海軍機
@ 中島九五式水上偵察機 160×115mm
中島九五式水偵に見る写真修整の意図 参照
A 中島九七式艦上攻撃機 138×93mm
拡大 双発機らしき機体が着陸体制に入っています。
B 同じく中島九七式艦上攻撃機の3機編隊 138×93mm
C マレー半島ピナン上空の九六式陸上攻撃機 160×115mm
D 愛知九九式艦上爆撃機11型 160×115mm
地上は冬景色なのに、上空でカウルフラップも風防も全開という不自然さがあります。合成か一部描画か?
シーナさんから指摘 : (有)モデルアート社 1993年4月30日発行の「日本海軍機の塗装とマーキング」の中に類似の写真がありました。僅かにアングルが異なりますが、地上の様子などからも同じ時に撮影されたものと思います。これには「33空の203号機(33−203) 昭和17年初夏、スラバヤ上空」との説明がついています。
これが事実とすれば、佐伯さんが「冬景色」としているのは実は水面(川と水田?)で、陽光を反射して白く写っているのではないかと考えられます。同書には、スラバヤと断定した根拠は書いてありませんので真偽のほどは不明ですが、機番まで記しているので何らかの根拠はあるものと思います。
また他にも異なるアングルの写真が何枚か存在するようなので、元はスチルではなくムービーかもしれません。
ogurenkoさんから指摘 : 九九式艦上爆撃機の同様(似たアングル)の写真が、世界の傑作機99式艦上爆撃機(No.33、133)にも掲載されています。特にNo.33には、離陸から空撮、着陸までの連続写真があります。他に、33−201機の写真もあります。昭和17年夏、スラバヤ基地で、海軍報道班員の撮影とあります。
中間色を修正
E 三菱一式陸上攻撃機11型 175×130mm
僚機の両舷の銃座窓がぴたり一致した平面図のような見事な構図です。機銃は7.7ミリ
拡大
F 南方基地の三菱一式陸上攻撃機か大型陸上練習機か 160×115mm
拡大 機首銃座を隠ぺい?
にがうりさんから指摘 ; 機首銃座は、佐伯さんの言う隠ぺいではなく、この形なのです。従ってこれは一式陸攻ではなく一式大型陸上練習機(G6M1)ですね。詳しくは日本航空機総集三菱編(改訂新版)p203に詳しく説明され、p196に図面があります。早い話し初期一式陸攻の武装、防弾強化型で30機生産されましたが、性能低下になり陸上練習機や輸送機として使われたものです。
シーナさんから指摘 : にがうりさんの説に横槍を入れるようで恐縮なのですが、この写真は「一式陸上攻撃機(たぶん11型)」で間違いないと考えます。
一式陸上攻撃機11型(G4M1)に先立ち、編隊護衛機として十二試陸上攻撃機改(G6M1)が生産されました。G6M1はのちに一式大型陸上練習機(G6M1-L)、一式陸上輸送機(G6M1-L2)へと改修されていきますが、G4M1とは細かいところに相違があります。
その一つが機首の窓の数です。一式陸上攻撃機11型(G4M1)は、機首上面(やや外側)と側面及び側面下部の計3列の窓があり、上2列が「前方銃手窓」(各2個づつ)、下が「爆撃席窓」(3個)となっています。
一方、G6M1、-L、-L2は機首側面の窓がありません(上図赤矢印)。Fの写真の機体には側面窓(2個)があります(黒く写っています)。上面の窓はありませんが、これは修正して消されたもので、実機にはあるはずです(図青矢印)。
側面下部の窓は一部消されていますが、前の方は残っていてこちら側から反対側の窓を通して外が見えています(白く写っている部分)。よって、この機体は一式陸上攻撃機11型(G4M1)と判断します。
私は、やはり塗りつぶしであり、元はこんな感じであったかと思います。
G 南方の護り三菱一式陸上攻撃機 175×130mm
H 空母 龍鳳(または瑞鳳)から発艦する九七艦攻(または彗星か) 175×130mm
陸軍機
@ 陸軍爆撃機の列線 127×89mm
数を見せるための合成の可能性もありますが、重・軽爆撃機がこのように並んでいる飛行場としては、爆撃訓練部隊である浜松の飛行第7連隊が考えられます。
拡大 三菱キ21 九七式重爆撃機
にがうりさんから指摘;日本航空機総集三菱編p78各型側面図によれば主翼取り付け部後部に黒い四角の側面銃座のようなものがあるのは、T型乙のようです。
佐伯から:丸メカ二ック29(昭56)によると、側方機銃は第一線からの要求で新設されたもので、T型乙、丙では銃1丁で左右の窓、U型では左右にそれぞれ専用銃が設けられたとあります。いずれにしても上方銃座が球形になったU型乙以前のタイプであることは間違いないでしょう。
拡大 三菱キ30 九七式単発軽爆撃機 または三菱キ51 九九式襲撃機か?
にがうりさんから指摘;写真風防の長さが前後長く見えるので九七式軽爆と思います。九九式襲撃機はもっと短い風防でムックリ型です。
A 爆撃機呑龍の勇姿 175×130mm
販売写真の証紙印について
戦時中は、あらゆる消費物資に公定価格を定めていましたが、このように写真の1枚に至るまで通し番号を付して証印を貼り付けていたとは驚きです。
「協定又は規格番號」 「査定番號」 「最終販売業者最高販賣價格」にそれぞれどのようなルールがあったのかは分かりませんが、1枚ごとに数字を印字し、その証紙を1枚ずつ写真の裏に貼っていく手間は大変なものでしょう。
表面的に闇価格を防ぐというアナウンス効果はありますが、品薄になれば公定価格などなんの役にも立たないことは、戦時中から戦後にかけて全日本人が骨身に沁みて経験させられたことです。
それにしても、ブロマイドの1枚に至るまで証紙を貼りつける案を考え、決定した役人の戦時中の脳細胞の特異性には、思わず笑ってしまいます。
貼付の例 D 愛知九九式艦上爆撃機U型写真160×115mmの裏
@ 中島九五式水上偵察機
C 三菱九七式陸上攻撃機
F 三菱一式陸上攻撃機
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