航空歴史館
満洲奉天(瀋陽)の飛行場の思い出
1945年までの奉天の飛行場概図
1 東塔飛行場 奉天飛行場 奉天東飛行場 |
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2 北陵飛行場 奉天北飛行場 北 |
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3 奉天西(鐵西)飛行場 奉天西 |
3-1 馮庸大学 3-2 奉天西(鐵西)飛行場
3-3 鐵西滑翔場 3-4 飛行場閉鎖後
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4 于洪屯飛行場 ぅ
東北軍が開発したものか、関東軍が設けたのか不明ですが、ずっと軍用飛行場であり、現在は瀋陽軍区空軍第4独立航空団が駐屯しています。
@ 故吉良正士さん作成の于洪屯飛行場要図
この見取図の作成者は吉良正士さんです。奉天市于洪屯飛行場にあった教育飛行隊の操縦訓練で、地上目標を覚えるためにスケッチしたものと思われます。作成は1944年(満洲国年号で康徳11年、昭和19年)前後のようです。 原図はB4のザラシに色鉛筆で記入 (文字が不鮮明のためパソコンで上書き)
図にあるように農家や牧場が点在する農村地帯の中に、縦横約2キロメートルの飛行場があったようです。【于洪屯は日露戦争で歩兵第33連隊が全滅、第6連隊が2千数百名の犠牲を出しながら辛うじて占領地を死守したという奉天会戦最大の激戦地と言われています。于洪屯の文字の右に記念碑状のマークがあるのは第6連隊のものでしょうか。】
A 故吉良正士さん作成の于洪屯飛行場 場周飛行要図
次の図は、第一斑第三組吉良正士の署名がある場周飛行のプログラムです。教官が黒板に書いていくのを一生懸命に書き取り、自室で清書されたのでしょうか。紙は黄変していても青インクで丁寧に記入し、赤鉛筆で強調した場周経路の注意点は、基本的に六十数年後の今でも通用すると思います。
この二つの図面の作者の吉良正士さんは殉職と判明しました 2007/01/12 佐伯邦昭
スケールアヴィエーション誌2002年7月刊の「海鷲陸鷲あっとらんだむ 第10回「ああ満州国軍航空隊 番外の2(続) 満洲国軍航空隊の歴史と戦闘の記録」(さんぽんさん提供)に、次のような記載がありました。
康徳12(昭和20)年3月9日、奉天航空学校所属の梶田繁寛(軍官学校一期転科学生)と吉良正士(軍官学校二期転科学生)は、ともに九七式戦闘機で編隊訓練中に接触し、墜落して両名とも殉職した。
軍官学校とは、満洲第二航空軍の航空学校のことで、転科学生とは、他の兵科から転科して操縦の速成教育を受けた学生を示します。自ら応募して九七戦の訓練に励んだ若者が、手作りの于洪屯飛行場要圖と場周飛行要圖を再び手にできない無念を思うと、涙せざるを得ません。
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八八式偵察(又は軽爆撃 )機
九三式単発軽爆撃機 東塔飛行場と思われます。
愛国第1号(ユンカースK-37)軽爆撃機 横川 裕一
ポテ25A2(保貞)偵察爆撃機
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