太平洋横断飛行を何度も試みては失敗し、それが原因かどうかは知りませんが、社運傾き遂には讀賣新聞に合併さされてしまった悲運の大新聞−戦前の報知新聞社−の最後を象徴するような写真です。
ユンカースA-50
ユニオールは、太平洋横断飛行を目的として寄付金や補助金により同社が2機購入しました。
1号機 J-BECB 日米報知号
2号機 J-BENB 第2報知日米号
A-50は、吉原清治飛行士によりベルリン〜東京11,096km飛行に成功していますが、それが報知号になったのかどうかはわかりませんが、この両機にはフローとが取り付けられてアリューシャンの島伝いでアメリカを目指しました。
しかし、日米報知号は1931(昭和6)年5月14日に千島海域に不時着水、予備に差し向けた第2報知日米号も同年7月5日に根室湾で高波にあって破損しました。ユンカース独特の波板外皮の新鋭構造とはいえ、わずか80馬力のエンジンで北周りで飛ぼうというのは無謀ともいえる計画でした。その後もサロー
カティサークやユンカースW33で無着陸横断飛行を試みますが、ことごとく失敗し、世論の批判も高まって、1935(昭和10)年暮れに社告で断念を表明し、手を引きました。
さて、2機のユンカースA-50
ユニオールは、事故後にフロートを車輪に変えて報知新聞社機として使用されます。
1号機 J-BECB → J-BESB 第六報知号
2号機 J-BENB → J-BENB 第七報知号
この2機がいつまでどのように活躍したのかについては、(佐伯の知る限り)どの文献にも見当たりません。また、写真についても、機首に日米号
JUNKERSと描いたものはいくつかありますが、第六、第七については、上の写真が初めてです。
しかし、これもいつどこでクラッシュしているのか不明です。見たところ、脚の損傷だけで修理可能なようです。
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