1 日経新聞と航空情報から
日本経済新聞7月の島津製作所会長矢嶋英敏さんの私の履歴書は、ヒコーキマニアにとっても目を引く内容でした。防衛庁の輸入課契約係から創立直後の日本航空機製造株式会社へ移り、YS-11の販売などに当り、更には島津製作所にスカウトされて航空機部品の売り込みに奔走した話しなど、航空史を補完する事実が次々に出ており、最後は自分の人生を左右したYS-11は、どう言われようと優秀な飛行機であったと設計製作者を賞賛して終わっています。
一方、同じ時期に出た航空情報9月号に粂喜代治さんが、YS-11は
「旅客機として」まともに飛べる設計製作ではなく、日航製造は欠陥を指摘しても相手にしてくれず、結局YS-11をここまでの長寿旅客機に育てたのは運航会社
にほかならないと書いております。
図書の紹介の前に、矢嶋さんと粂さんのことを書いたのは、たまたま二冊の本のそれぞれに共通するものがあるからです。
”惜別!YS-11”は、これほど着陸操縦のむつかしい旅客機はほかにないと書き出しながら、読み終わってみると、まさに惜別の情ふつふつと沸いてくるYS-11への愛着であります。矢嶋さんの流れです。
”YS11の悲劇”は、副題の”ある特殊法人の崩壊”が示すように360億円もの赤字を国民に押し付けて倒産した日本航空機製造株式会社の歴史を掘り起したドキュメンタリーです。こっちは粂さんの流れです。
2 惜別!YS-11
坂崎さんの惜別!YS-11はYS-11を語りながら、実は坂崎キャプテンの半生記といっていい内容で、ギャグ的要素も含みながら単独フェリーや定期路線の出来事が語られていきます。「YSは見かけはサラブレッド、しかして実体は農耕馬である」はけだし名言、何故だと思う方は本書をひもといてください。
日航製造社員としてアフリカや南米へ輸出するYS-11のフェリーの話は、座席や増加燃料タンクのことや、高地の飛行の危険性など実体験による記述は面白くもあり、勉強にもなります。
また、親切にもコックピットの大判カラー写真つきで機器の詳しい解説と、羽田から三宅島までの操縦のキャップ・コーパイの心理状態まで含めた描写がついております。
3 YS11の悲劇 ある特殊法人の崩壊
目次から、第1章 素顔のYS-11 第2章 足踏み 第3章 奇妙な資金計画 第4章 ダンピング 第5章 倒産と拾っていけば、おおよそ本書が何を書いているかがわかるでしょう。
筆者は東京新聞社会部記者の出だしでYS-11初飛行を取材しました。その感激を胸に抱きながらYSと付き合っていくうちに様々な疑問を抱くようになり、その最大の問題点が、お客を乗せるための旅客機でありながら、ユーザーの立場を無視するかのような設計製作社側の態度であったようです。
それは粂さんが度々言っていることでもあり、新聞記者として日航製造にお役所的な気風を見ているというのが、私には大きなポイントだと思えます。
要は、通産省というお役所があって、その下に日航製造という下部組織があったのです。通産省はこれまたお役所の弊害である縦割り行政のために、運輸省や防衛庁との連携の姿がぜんぜん見えてきません。お役所下部組織的であった日航製造が民間航空会社を相手にしなかったのも無理はありません。にもかかわらず運輸省も防衛庁も民間も国策であるからと欠陥製品を強引に押し付けられております。
もうひとつ、通産省の節度のなさというか、1機4億円が5億2千万円にも高騰して日航製造が死ぬような思いで販売交渉を続けているのに、殆ど有効な救済手段を講じていないこと、あるいは、後始末に追われるあまり、せっかくの技術継承ーつまり次期大型機開発ーに道筋すらつけなかったことなどを問題点としてあげることができます。
山村さんが国辱的契約と書いている南米各国への売り込みは、直接その衝に当った矢嶋さんと坂崎さんの回顧とはニュアンスの異なるところがあります。しかし「国辱」という状況の時に乗り出すべき政府の姿は、相手国の高官などばかりが目立っていて、日本の優秀なお役人連中は何をしていたのだろうかと思わせます。口ではYSを国家的プロジェクトと言いながら・・・。
この本が出版されてから約10年経ちますが、お役所の状況が飛躍的に改善されているようには見えませんね。霞ヶ関の全官僚に必読の教科書として進呈したいものです。
4 検証は続けなければならない
とはいうものの、180機の生産と販売と運航が残した実績は正当に評価されなければならないでしょう。YSに関するたくさんの書籍が出版され、プロジェクトXにも登場していることが、YSの多様な評価を物語ります。
ここに、わずか2冊の紹介だけで事が済むとは思っておりません。
また、随想的な書物と警世的な書物を並べて紹介するのはおかしいといわれるかもしれませんが、書名にYS-11という共通項があるので代表選手として登場させた次第です。
2002年8月30日にYS-11初飛行40周年の集いが新橋航空会館で開催されました。設計、製作、販売、運航のあらゆる分野でYS-11に関係した人々が馳せ参じ、不愉快な行きがかりは捨てて談笑の渦ができたそうです。
いいお話しだと思います。
でも、それはそれとして、YS-11の功罪だけはこの先も検証し続けなければならないと考えます。
明日の日本の航空界のために。
佐伯さんのYS-11の書籍の紹介に関連して にばさん
昨年所沢航空発祥記念館でYS-11シンポジウムが開催されました。小生も参加しました。粂さんは導入当初のYS-11はとても旅客機といえる代物ではなかったと言われてました。雨が降るとすぐ不具合が出たり、天井のエアコン出口から水がもったり、胴体後部の非与圧部分に大量の雨水がたまったりで大変ご苦労されてそうです。
種々の対策を立て日航製に連絡したりで、やっと普通に飛べる旅客機になったそうで、生みの親が日航製で育ての親がJASをはじめとするエアラインでしょう
。お陰でエアラインの技術がYS-11に育てられたそうです。小生もANAでYS-11の主脚作動筒の油漏れ対策や主脚ロックの表示器の視認性向上のための色の変更などの改修を担当しました。
旅客機は運行してメーカーには決してわからない、運用の上の問題が多数発生します。そういった問題を次期輸送機に設計段階でどう反映させるかがメーカーの技術の成長につながると思います。
YXが日の目を見なかったために折角戦前の五人のサムライといわれた技術者から引き継いだ技術がYSの関係者が殆ど定年退職してしまい、継承されなかったのは日本の航空機製造技術にとって全くもって残念なことで大きな損失だと思います。
C−1や戦闘機にその技術が継承されているという方もいらっしゃいます。しかしそれは所詮軍用機の技術であり、稼働率や定時性が即企業経営に影響するシビアなエアラインに対するものとは性質が異なると思うのです。
佐伯から : YS-11によってエアラインの技術が育てられたとは、まさかそれが日航製造の意図するところではなかったでしょう。造る側と使う側の意思疎通、古くて新しい問題です。
YS-11本は第三者によるものとパイロット側から見たものが圧倒的に多いなかで、もっと整備側の本が出てもいいような気がします。(関係者が思いを綴ったものは何冊かあるみたいですが、公開はされていません)
なお、にばさんには成田の航空科学博物館へ土曜日の午後行くと会えます。台風の時には主翼の上に土嚢を積んだとか面白い話が聞けます。