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AH-2025-10 宮崎県宮崎市赤江   宮崎ブーゲンビリア空港
       Miyazaki Airport, Miyazaki-Prefecture    

2024年10月1日 午前8時前 米軍不発弾爆発事故

 10月1日朝午前8時前に 宮崎空港滑走路わきで戦時中の500ポンド不発弾が爆発するという事故がありました。 
 ニュースを見ていて空港滑走路の変遷や戦時中と現在の滑走路位置関係など詳しい説明が出ていないので纏めてみました。

爆発発生場所
Google Earth 2024/02/18


第二次大戦直後の滑走路写真
国土地理院航空写真 1947/03/03 現在の滑走路を重ねたもの


宮崎空港では1990年に滑走路長さが1800mから2500mに延長されています。
国土地理院 1983/05/17 航空写真では東側滑走路末端のところがちょうど爆発事故のあったところになります。 この時期はまだ旧軍滑走路が見えています。


国土地理院 1974/02/28  この時点では海側の誘導路はまだありません。


1974年から1983年の間に延伸工事で事故のあったところが工事されたということですね。

ニュースで宮崎空港に大量の爆弾が投下されたということで投下量を米軍資料で調べてみました。 下記の資料 では合計で 49トン の爆弾が投下されています。
全て500ポンド爆弾として換算すると 213発ほどの数量が投下されたことになります。
宮崎市内には 93トン の爆弾が投下されているので 1/3が飛行場破壊に使用されていますね。

米軍 Tachtical Mission Report   Copy No. 119 より抜粋 
ミッション期間は 1945年5月 7,8,10,11日です。




米軍の当資料には残念ながら写真掲載はありませんでした。

尚、当ミッションでは九州全域の滑走路を使えなくすることが目的で下記に攻撃ポイントが書かれています。


このミッションでは延べ196機が使用されていますが、墜落したのは3機と書かれていました。
約1.5%の損失です。


 追記
 丹羽さんから当記事 上から2枚目1947年の米軍撮影 国土地理院公開の写真について説明と撮影用機体についての説明を頂きましたので紹介します。

  終戦直後の日本全土を詳細に空撮する為、進駐軍はP-61 Black Widow戦闘機36機へ大型カメラ3台装備の改造実施。  第8TRS(Tachtical Reconnaisance Squardron)を Johnson基地(現 航空自衛隊入間基地)で編成し、 1947〜1949年の間、日本国中をくまなく空撮した。  その記録写真で、日本政府は戦後復興に役立てた。 この撮影写真現物は豊田市中央図書館でも閲覧できる。  (丹羽八十)

 F-15A ソリッドモデル  製作 丹羽八十
 Northrop F-15A-5 Reporter 8th PRS, 71st RG, 5th AF,
 USAF S.N 45-59323. size 1/50
 

 また、爆撃に際し事前偵察撮影が行われた件についての説明です。

 米軍が爆撃をする準備としての事前偵察飛行記録です。
 1945年5月16日 ミッション番号 5M214でB-29改造の写真偵察機F-13が写真撮影を行っています。
 ルートはグアム発→宮崎→熊本市街地→大牟田市街地→目達原飛行場→曾根飛行場→厚東川と宇部市街地→山口市街地→徳山市街地→岩国陸軍燃料廠→松山城と松山市街地→グアム着
 出典:「米軍の写真偵察と日本空襲、写真偵察機が記録した日本本土と空襲被害」 工藤陽三著 自費出版 2800円
 (丹羽八十)

 上記書籍についてですが、現在も通販等で販売されています。 第2刷ということでご覧になっている方も多いと思います。 宮崎空港の偵察記事は 110〜111ページに記載されています。 
 総ページ数が186ページ(目次などを除く)あり 撮影機材から偵察記録まで当時の状況を知ることに役立ちます。 (編)