山口県目次 伝説の時代から現代まで 航空史抜き書き

航空歴史館

                  

防府市  富海(とのみ)海岸に並んだ海軍一四式水偵群
  当時の新聞記事から壮観ぶりを見る
川西航空機が防府市へ進出しそこなった話し

 

A6505-6 山口県 Yamaguchi Prefecture 防府市 富海海岸
    
思い出 富海(とのみ)海岸に並んだ海軍一四式水偵群 写真提供:山田英生  中国航空協会古谷眞之助

 古い先輩が、写真を届けてくれました。防府市の富海海岸の 一四式水上偵察機群です。たぶん、徳山に入港したときのものだと思いますが、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲へ発表すれば詳しいことが分るかと思い送りします。もちろん、写真提供の山田英生さんの許可を得ています。山田のお父さんは長門に乗艦されていたそうです。

 過去の「ほうふ日報」によると、写真提供者は「富海、河内山荘次氏」となっています。しかし、撮影されたのが山田さんのお父さんなのか、河内山荘次氏なのかは分かりません。また、同紙の解説記事には、以下の記述があります。

  「富海海水浴場は遠浅で有名だが、その沖の三田尻湾はとても深くなっており、海軍の寄港地、訓練場となっていた。この写真は昭和2年、海軍艦隊が同港に寄航、珍しいゲタバキ水上機が10数機富海の海浜に勢ぞろいした珍しい写真である。富海沖の三田尻港は大正年代より海軍の訓練場として使われており、年に数回、沖は戦艦でいっぱいになった。この水上機は偵察目的及び着弾距離を確認するために飛ばされたという。この水上機はクレーンよって船に上げ下ろしされた。」

  写真の.左奥の山の中腹に「特攻艦隊留魂碑(大和出撃記念碑)」があります。手前の少年がご愛嬌です。



沖縄へ出撃直前に大和が仮泊していた海面 人生録18 いざ往かん防府市へ Z-18参照

 

各機クローズアップ (かつおさんの協力を得て佐伯邦昭が解説)

水上機母艦能登呂12,786t 搭載機 ノトロ-10


能登呂 搭載機 ノトロ-23

能登呂 搭載機 ノトロ-11

 能登呂は、1924(大正13)年に佐世保海軍工廠で給油艦から水上機母艦に改装されて特務艦≪1934(昭和9)年に水上機母艦に類別変更≫となり、一方、 一四式水上偵察機は1924(大正15)年の正式採用以後、二号、三号と改良されて1934(昭和9)年まで生産されています。

 ノトロと下記ナガトの写真を見ますと、二号以降の特徴(エレベーターを動かす2本のワイヤーが操縦席横から尾翼まで胴体に露出している)が見られないので一号水偵ではないかと思われます。

 能登呂の水上機常態搭載は8機とされていますので、-10、-11、-23という数字の意味するところは分かりません。

 いずれにしても、この写真の撮影時期は昭和のごく初期ではないでしょうか。


戦艦長門搭載機 ナガト-1  戦艦陸奥搭載機 ムツ-1


巡洋艦古鷹搭載機 フルタカ-1  巡洋艦加古搭載機 カコ-1

          

 戦艦、重巡洋艦、水上機母艦の艦載機がこのように海岸に並んでいるということは、沖合には更に駆逐艦など合わせて連合艦隊の主力が集結していたはずで、甚だ壮観であったと思われます。

 寒村の富海の人達は日本海軍の力強さに驚きもし、安心感も植えつけられたでしょうし、男の子には羨望とともに海軍への志願意識を芽生えさせたのではないでしょうか。


日替わりメモ578番 2008/10/10

 富海(とのみ)海岸に並んだ海軍一四式水偵群

 またまた未発表の写真が発掘されました。搭載艦の記号が明瞭に確認できる海軍一四式水偵群です。

 JR山陽線の富海(とのみ)駅を降りて5分も歩くと、堤防の向うによく整備された海水浴場があらわれます。ここに立つと、沖縄特攻に向おうとする大和の艦隊の姿がほうふつとして浮かんできます。

 本日発表の一四式水偵が波打ち際にずらっと並んでいる写真の記号からは、一世代前の陸奥、長門を中心とする連合艦隊が沖合に仮泊していた姿が想像できます。凄いですね。この写真をもう少し左に振って沖合の艦隊を入れたものがあれば、艦船マニアは驚喜することでしょう。


日替わりメモ579番 2008/10/11

  富海(とのみ)海岸に並んだ海軍 一四式水偵群   Sさんからメール

 富海(とのみ)海岸に並んだ海軍一四式水偵群 の航空歴史館は、こうして部分拡大すると古きよき時代の光景が生々しく蘇り、ページ全体が非常に迫力があり、見事な編集です。
 なお、「のとろ」のトン数は福井静夫の「写真集日本の軍艦」、野沢正の「日本軍艦100選」では14,050tとなっています。念のため。

佐伯から : お褒め頂きうれしいです。能登呂のトン数は資料によって15,400t 14,50t 12、786tの説があり、水上機母艦への改修後の正しい数値はよくわかりません。


2010/05/13 古谷さんから 新聞

 図書館で「防長新聞」を繰っていたら、昭和2年2月6日〜16日にかけて掲題関連記事が掲載されていましたのでその要約を送ります。佐伯さんが推測されているように大変な規模でした。

・この時来航したのは、第一艦隊及び第二艦隊の合計66隻
・第一艦隊は2月12日から3月13日まで停泊
・第二艦隊は2月11日から3月10日まで停泊
・入港艦は、戦艦長門、陸奥、伊勢、巡洋戦艦金剛、比叡、巡洋艦13隻、特務鑑1隻、駆逐艦33隻、潜水艦10隻など
・第一艦隊司令長官は連合艦隊司令長官の加藤寛治中将 (旗艦長門)
・第二艦隊司令は防府町右田村(現防府市右田)出身の吉川安平中将 (旗艦金剛)
・陸奥艦長は防府町出身の枝原大佐
・乗組員総数 1万9千5百名
・防府町の対応ぶり
  町長、町議の両艦隊公式表敬訪問
  入浴券1万5千枚贈呈
  清酒17樽贈呈
  幕僚以下66名を晩餐会に招待
  長官専用自動車を供与
  青年将校、特務士官に対し山口町への移動に際して自動車を供与
  上陸将校並びに下士卒の休憩所を松崎神社に設け茶菓の接待
  風波のために帰艦できぬ者は、宮市定念寺、三田尻正福寺に無料宿泊
・3月12日、午後4時半頃、飛行機が三田尻上空を飛ぶ
・3月14日、防府中学校グランドにて約5千名による閲兵式挙行
・この時、一四式水上偵察機8機が上空通過
・観覧者は約1万人
・この後、各艦長ら60有余名は駅前の「山陽楼」にて歓迎会
・停泊中の土日には天神山運動場にて実弾射撃訓練実施


 富海海岸の一四式は閲兵式前の準備のシーンかと想像します。それにしても、66隻もの艦艇が三田尻沖に集結したのはさぞかし壮観だったことでしょう。それも約一ヶ月にわたる停泊です。写真がどこかに必ず残っていると思いますが、防府市の歴史関係の写真集ではついぞ見たことがありません。一般人が水上偵察機の写真を撮影しているのですから、特に制限などがあったようにも思えませんが。

 

A6505-7 山口県 Yamaguchi Prefecture 防府市
 
航空歴史館

川西航空機の工場が防府へ進出し損なったはなし  古谷眞之助

もしかしたら、防府市に川西航空機の工場ができていたかも知れなかったという話です。


川西航空機株式会社が進出を予定した西浦海岸

 現在マツダ防府工場のある西浦は、中国航空協会のグライダーが毎週飛んでいる航空自衛隊防府北基地から直線距離で約2キロのところにある湾一帯を指します。

 この話が降って沸いたように防府市にもたらされたのは、昭和14年の秋のことでした。カネボウ、協和発酵以外、これといった企業がなく、企業誘致に懸命だった当時の市は、この話に飛びつきます。
 しかも、この誘致話には山口県出身の海軍中将で、同社顧問の肩書きを持つ枝原百合一氏もからんでいました。市もそれなりの資金を負担していますし、川西側でも、工場立地調査に相当の資金を投じたようです。確かに、西浦は大きく入り込んだ湾になっており、しかも遠浅ですから、埋めたても容易、シードロームも前面は穏やかな瀬戸内海ですから問題ない、交通の便も三田尻駅(現、防府駅)があって悪くありません。

  しかし、誘致話から1年弱経過した昭和15年6月6日、同社役員奥津氏が突如防府市を訪れ「この話は無かったことにしてくれ」と申出ます。
 理由は、そもそも同社が計画していた神戸市郊外の海面約二万坪の埋めたてが、漁業組合の反対にあって半ば諦めていたところ、急転直下、これが受け入れられたためなのでした。
 
兵庫県A5621 飛行場空撮 官設鳴尾飛行場参照

 市は落胆しますが、新聞記事には「残念ではあるが、これで西浦の工業立地の可能性がしっかりと認められたわけだから、悲嘆するな」と、やや苦しい記事があります。まぁ、それから半世紀後にマツダ防府工場を誘致できはしたのですが。

  一飛行機ファンとしては、しかし、残念ですね。。もし、ここに川西飛行機のの工場ができていれば、今頃新明和のUS−1改が、あるいは防府の海岸から飛び立っていたかもしれないのです。
 現在では航空自衛隊の基地となっている防府北基地ですが、戦前は陸軍航空基地、さらに南基地には海軍の通信学校がありました。陸上基地から至近にある西浦に水上基地ができていれば、あるいは、戦後の防府市には航空機産業が立ち上がっていたかも知れません。防府市には巴航空機工業もあったのですから。

 昭和1568日 「防長新聞」掲載記事

見出し 「防府の工場誘致、失敗は悲観無用。工場適地の立証が大儲け」

 防府市が昨年来、西浦の地に誘致せんとした川西飛行機製作工場が六日会社重役某氏の発した悲報によって絶望となったことは昨報の如くであるが、突如来防の重役某氏とは同会社取締役奥津慶一郎氏で、同氏は市役所で山田助役に面会して申し入れを行った。(中略)

 同工場が防府市設置の沙汰止みとなったことは、かねて会社において神戸市外に工場設置の目的をもって海面二万坪の埋め立て計画中、漁業組合の反対にあって行悩中のものが、今回解決するに到り、目下資材その他の関係で同所以外に工場を設置することは許されぬ事情によるものであるというが、いずれ直接枝原百合一氏より市に対して挨拶があるものと期待されている。(中略)

 同社の諸調査によって西浦の地が工場適地として如何に優秀なる条件を具備するかが明らかに説明せられ、これが大いに将来の工場誘致に役立つことになることが市の大きな拾い物で、同工場設置の沙汰止みは決して悲観すべきものではなく、かえって他の大工場到来の期を早めたこととなる訳である。