南アルプス赤石岳(静岡県側)の三菱キ21九七式重爆撃機の残骸についての情報が50年間途絶えているように思います。今年は、北海道ニセコアンヌプリ山中の零式艦上戦闘機の主翼が麓の倶知安郷土館へ収容されたグッドニュースがありましたので、関連して、実際に残骸を確かめてきたレポートを再び公にしておきたいと存じます。
佐伯邦昭
世界の航空機1954年12月号記事
下記記事は日本語OCRで読み取ったものです。一部誤読み取り箇所を修正したほかはほぼ原文のままです。
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佐伯
墜落機探訪記‥・
再び見る日本軍用機
金田元之助
戦後もはや10年近くになろうとしている今日、我々フアンの中には未だに旧日本軍用機を今一度見たいものと思っている人達も少くない事であろう。
筆者も他聞に洩れず同じ気持を未だに持っているのであるが、最近雑誌に紹介された『日本軍用機の一部は今尚アメリカに無事保存されている』と云う喜ばしい一文を見て、機会あれば此の夢も実現出来るものと新たに希望を持つ事ができたのである。
然し筆者はごく最近、再び日本軍用機に接する機会を得た。勿論内地での事であり、此の目で見、此の手で触れて来たのであも。全く夢の様な話しだが、以下これに就いて説明すると共に写真若干を添える事にした。甚だニュース的な愚文で恐縮だが、日本機フアンの為に敢えて筆を取った次第である。
墜落機は何か
筆者としては航空機に就いては其の一切を諦めていた22〜3年の頃だったと記憶するが、友人から南アルブスに日本軍用機が墜落した儘になっていると云う話を聞いた。
筆者としては此れをその儘闘き流すはずはなかったが、近くの山腹にB-29が殆んど無傷で不時着した話を聞いているだけに、これは他分B-29の一件が誇張されたものだろうと解釈していた。
然し、直接南アルブスに登った人達にその模様を聞いて見ると、B-29とは全く別の話で墜落機は日本機である事は間違いない事が解った。しかし相手が航空機に関しては全く興味のない人達なので話しにならず、ただ墜落機は双発機であるという程度しか掴めず陸海軍の別や機名等は勿論判然としなかった。あやふやな人の話を継ぎ合わせると胴体腹部にふくらみがあり、座席ほ前後2ケ所にあるというので、これはてつきり九九双軽であろうと判断していた。
それに機首のみが破壊している程度というので、筆者白身が実際に現物に接したいものとその機会を狙っていたのであるが、種々の都合で容易に実現するを得なかった。当時筆者としては登山と云う事は不馴れの為に自信がなく機を逸した様な形であったが、計らずも今夏、実兄や岳友と共に南アルブス登山の機会を得計画以来五年余、漸くにして墜落機に接するという宿望を果す事が出来たのである。
さて本物は?
去る8月9日、兄をリーダーとしてT君と筆者の3人は6日間の予定を以て出発、木沢口より登山、大沢渡に至る快適なる山林鉄道が思い出される。大沢岳、兎岳、聖岳を縦走し、赤石岳にほ12日の午前11時頃到着、いよいよ墜落現場附近に到達したのである。
9日以来快晴に恵まれ絶好の登山日和であったが、赤石岳にさし掛る頃から天候ほややくずれ気味となり、山特有のガスが発生し山頂では殆んど展望が利かなくなってしまった。肝心な日に天候がくずれ気味となり、墜落機を発見できぬ恐れもなかつたわけではないが、筆者として興奮を覚えないわけに はいかなかった。
赤石岳から筆者がトップをきり墜落機を発見せんものと左右くまなく探し歩いたが、はや小赤石岳を目前に見ながら容易に発見出来ない有様で、果して墜落機のあるのは真実かと疑うと共に一抹の不安さえ感じ始めてしまった。
これから間もなく私より50mばかり後に歩いていた兄が墜落機を発見、遂に感激の時は来たのである。一瞬にしてその疲れをも忘れると云った気持は航空フアンならでは味わえぬものであろうが、眼下にあの懐しい灰色の肌を見せて身動きもしない日本軍用機を見て感激せざるを得なかった。
かくて戦後9年、再び日本軍用機に接する事が出来たのである。
然し乍ら筆者の期待のそれを完全に裏切ると云う事実に直面したのである。何故ならば、墜落機というより寧ろ残骸に近いものであったからである。ともあれ筆記用具、スケール、キャメラ等を持ち現場まで下りる。
ここで墜落現場を説明すると、赤石岳と小赤石岳の中間に当る静岡県側で30度程度の傾斜を持つガラ場(石ばかりの所)である。赤石岳より10分ばかり下った地点であるから標高は3000mもあろうか。縦走路から約150m下の地点にあたり、ガラ場のため現場まで15分〜20分は掛った事と記憶する。
実際に墜落現雛に降り立ってみると、その破片は広範囲に散乱し、さながら三原山の惨事を目のあたりに見た感じであった。おそらく濃霧の為の事故であろうと推察されるが、左主翼のみやや完全な姿を残し胴体は見る影もなく破壊し、一見して機種は何であるか判定するを得なかった。(第1図参照)
残された片翼、尾翼等をよく見て後、始めて九七式重爆撃機であるということが解ったが、墜落地点から想像して恐らく浜松航空隊所属機だと思う。
崖の近くに先ず主脚があり、次いで発動機及びプロペラが投げ出されている。
これより離れる事約50mの地点に胴体を激突したものらしく完全に潰れた胴体と左主翼がある。(第1図参照) 胴体は後方側部の小窓のある部分を残し最尾端は左側水平安定板のみ残し(第2図参照)垂直安定板は跡形なく吹飛んでいた。
激突した際、右主翼は折れて飛んだものらしく主脚と同様崖近くにその残骸を見せていたが、主脚とは全然位置が異る地点である。第1図の主翼(左側)よりは、その内部構造がよく判り、充分に調べ得る事が出来たが、これは主翼先端より2/3程度を残していた。前縁は殆んど破壊して前桁らしきものを露出し、後縁ではフラップが跡形なく吹き飛んでしまっているが、日の丸は雨に打たれた為か僅にその跡を残すに止まる。
その他、細い部分が無数に散乱、操舵用のものと思われる鋼鉄線?が数本赤サビになっているのが印象的で、主翼が大変長く見えた事も又印象的であった。
胴体後方側部の小窓から見て九七重2型と思われるが、胴尾部の遠隔操作の機銃を備えた部分がズツク布ではなくオールデュラルミンである事と、更に極めて小さい小窓(機銃整備の為か)があるところからT型乙ではないかとも思われる。
従って発動機はハ101(火星)(複列14気筒)と思う。第5図に示すペラのついた発動機は殆んど無傷といってよく、素人考えから分解掃除を行えば使用出来るかの様に思えた。これに反して第4図に示す発動機は気筒など黒ずんで大変汚れていた。プロぺラは二段可変の3翔であるが筆者が実測したものは半径約170cmであった。実測にてぺラの図面を作成したが、実測でほ正確とはいえないので写真のみ附す事にした。
あ と が き
天候悪化の為、僅か40分にして引揚げなければならない事になってしまい、大変残念であったが写真数十葉と若干の構造資料を持ち帰る事が出来た。
今回の登山が2、3年前であったならば、九七重の面影を完全に認める事が出来たであろうと思うと尚残念に思われる。というのは静岡県側で処理をしたものらしく、主翼上面に“最終処理実施す”“静岡県山岳課”と太々に書かれていたのである。
故に殆どその儘と云う友人の話も満更嘘とは思えないし、又登山記念の為か、日本機フアンの仕業か第12図の様に主翼のところどころが切抜かれていたのには筆者も苦笑いせざるを得なかった。
もし今後、諸兄の誰かが本機に接したいと思うならば、ここに示した以上は処理されるほずがないから、調査に出掛けられるのもよかろう。
九七重の翼構造を調べるにほ充分なものと思われるが、調査後には筆者と変った資料を本誌へ発表されん事を願って筆をおきたいと思う。2