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都道府県別・展示保存機総覧
A4311 長野県飯田市 三浦氏宅
掲載12/02/06
追加13/01/05
都道府県別・展示保存機総覧
A4625 愛知県半田市 輸送機工業株式会社

 

発見! 艦上偵察機彩雲の発動機架覆

The Engine Mount Cover of Nakajima Carrier Reconnaissance Plane SAIUN  C6N1

発見された彩雲の発動機架覆
彩雲の実写
経緯
輸送機工業株式会社に納まる
三色ボールペンによみがえる 輸送機工業株式会社記念品
半田市立博物館に展示


 

6 半田市立博物館に展示

    

 2012年暮れから半田市立博物館に展示されています。見た感じでは、予想していたよりも小さいですが、乱雑なリベットラインなどはなく作業員は一定の技量が確保されていたようです。(田中昭則)

 


1 
艦上偵察機彩雲の発動機架覆 提供 三浦

 豊川海軍工廠が長野県松尾村(現飯田市)に疎開してきた時に、民家を借りた人が土産として置いて行ったものだそうで、祖父の代から鶏小屋にしたり畑で捕まえた狸を入れたりしていましたが、今は倉庫に保管しています。

撮影2012/01/29 金網は鶏小屋のために張ったもの






文字 誉と読める


実機への装着の状態 四角の開口部は右側点検窓 (元写真は下記実写参照)


メジャーによる計測値 (直径は楕円形の横幅) 作図 三浦



資料による寸法 作図 A6M232


模型による図示 A6M232

 

実写

2 彩雲の実写  提供及び説明  杉山

(1) テニアン島にて 

 マリアナ諸島サイパン島の8Km南にあるテニアン島での撮影。太平洋戦争中、テニアン島には日本海軍のハゴイ飛行場があり日米の激しい戦いの末、昭和19年8月に米軍が占領しました。

 撮影時期は、ちょうどその頃で、格納庫に残された121空の彩雲を撮影たものです。徐々に部品が切り取られ、米兵のお土産ハンターに狙われていたことがわかります。








 

(2) 岡崎海軍基地にて

 海軍の岡崎基地の撮影と思われます。(岡崎基地の他の写真に、同様の彩雲の写真があります。)この2枚の写真は、個人的な撮影ですから、昭和20年9月2日以降です。でも、その後はすぐに廃却処分になっているので、11月までの間と思います。

(3) 場所等不明の写真



 

(4) 米軍公式写真

  戦後、日本から米本土に送られた4機の彩雲の内の1機。米軍による調査中の彩雲T2-4804です。

経緯

経緯

日替わりメモ2012/02/02

〇  航空産業遺産に新しい1ページ

 中島艦上偵察機彩雲の発動機架覆が発見されました。旧日本軍用機史においても航空産業遺産分野においても超ド級のニュースです。詳しい経過が零戦談話室にありますので、是非読んでください。
 
 実は、三浦さんから航空機の部品らしいものがあるので、調べてくれと佐伯へ照会があったのが始まりで、当方の航空歴史館総目次への掲載も考えたのですが、旧日本軍用機に関して高度の知識を持つ人の出番が多い零戦談話室の方が適当として、佐伯から投稿してみたものです。

 そうしたら、あっという間に彩雲のものであること、そして大変貴重な遺産であることが判明しました。

 戦後、航空車輪を荷車などに活用した話はたくさんありますが、この場合は、鶏や狸の小屋だったそうです。よくぞ活用してくださったと感謝です。

 彩雲については、太平洋の島に残る残骸の輸入復元を、呉零の修復を受託した人がその金の半分を充てて実施するということでしたが、その後どうなっているのか知りません。ですから、日本国内において、彩雲の残る実機資料としては初めてであろうと思います。しかも発動機架のカバーがそのままというのがすごいです。

 日本航空協会航空遺産継承基金さん、感想をお聞かせください。

日替わりメモ2012/02/03

〇 続 航空産業遺産に新しい1ページ

 中島艦上偵察機彩雲の発動機架覆につきまして、日本航空協会航空遺産継承基金から電話があり、大いに関心を持っているとのことでした。実物の今後の扱い(寄託等)については、 三浦さんの考えを尊重しながら、いい方向に行くように仲立ちをしていきたいと思っています。 

 皆さんの反響の中で、鶏小屋などで使われたこと、そのためか小さな穴が開けられていることについて、彩雲を生産した中島航空機の誇りとして富士重工が引き取って修復すべきだという意見や、鶏小屋活用も日本の戦後航空史或いは社会史の一断面であり、そのまま郷土資料などとすればいいというような意見があります。あなたはどう思いますか。 

日替わりメモ2012/02/04

〇 続々 航空産業遺産に新しい1ページ

 長野県飯田市の某氏宅にある物体について計測した結果、世界の傑作機108艦上偵察機彩雲に記載されている寸法と一致しました。よって、正式に艦上偵察機彩雲の発動機架覆として都道府県別・展示保存機総覧にアップしました。大寒波と雪の中でメジャーを充ててくださった 三浦さんに感謝します。

 年末に磐田市で緑十字の一式陸攻の増設タンクが発見されたニュースN928を流しましたし、雑誌航空ファンも1ページを割いて紹介していますが、今回の彩雲はそれ以上の大発見です。

 世界の傑作機108で、鳥養鶴雄氏は、彩雲設計製作に関わった吉田孝雄、福田安雄、内藤子生、三木繁麿、萱場嘉夫ほかの人物が、戦後初の国産ジェット機富士T-1の開発に携わり、彩雲の技術がT-1に蘇ったと書いています。さて、航空ファン・世傑編集部と鳥養さんはどうしますかね。

日替わりメモ2012/02/06

〇 大発見! 艦上偵察機彩雲の発動機架覆

 大発見!としてニュースフラッシュ欄と表紙絵に取り上げました。反響を見ますとそれだけの価値があることを皆さんが認めています。

 杉山さん提供の未発表分を含む彩雲の写真も載せておきました。米占領下のテニアン島における写真はよく知られているようですが、別角度からの写真もあります。よく見ていくと少しずつばらされている様子が伺えまして、「米兵のお土産ハンターに狙われていた」という意味がわかります。

 故郷へ持ち帰られた部品がどうなっているのか、オークションに出る日本軍用機の機器類などがそうなのかと思い当たりますが、プロペラなど彩雲の部品もまだまだどこかで眠っているのでしょうね。

 それに反して、日本国内に残っていた発動機架覆の出現は奇跡に近いと言わなければなりません。67年間処分もされずよくぞ永らえてきたものです。開口部点検窓のパネルも納屋の隅の方で下積みになっているかもしれません。

 写真では上下半分ずつの金属の色が違います。世傑108の渡部利休さんの図では、上半分がステンレススチールと書いてありますので、上がSUSで下がアルミ系と思われます。 三浦さんによりますと、ステンレス部分が結構錆びているので、安物のSUSなのかなあと‥。
 物資欠乏当時の技術を知ることもできる遺産ですよね。

 また、機銃や弾丸生産の豊川海軍工廠の疎開なのに、艦上偵察機の部品が土産というのも何やら不思議な歴史を感じさせます。群馬県大泉での彩雲の生産や改良設計と愛知県豊川との間に何らかのつながりがあったのか、豊川に近い豊橋海軍航空隊で事故用途廃止になった彩雲の部品なのか、終戦後に給料代わりに現物支給された(或いは)拾ってきた鉄屑なのか 等々‥。

日替わりメモ2012/02/07

〇 続 大発見! 艦上偵察機彩雲の発動機架覆  ogurenkoさんから情報

 彩雲の件ですが、大発見ですね。興味深いです。しかるべき施設に永久保存して欲しいです。

 そして気になる来歴ですが、豊川工廠に関係があるようですが、東海地区だと中島飛行機の半田工場で彩雲と天山を生産していたと思います。そして、岡崎基地で最終的に艤装を実施していたと読んだ事があります。

 半田の博物館に彩雲のパネル展示がありました。そして、飛行場跡にもまだ滑走路が分かるように道と縁石がありました。たいした情報ではありませんが、元名古屋市民として思い出すのはこれくらいです。

佐伯から : 大きな情報です。これで彩雲と豊川海軍工廠とのつながりがぐっと近づいてきました。ありがとうございました。

日替わりメモ2012/02/12

更なる調査で文字が発見されました。
 
 佐伯の判読では、誉 枕 100 というように読めます。右の方には鉛筆で書いたらしい楕円もあります。誉文字の判読が正しければ、これで寸法と品名が一致し、彩雲の発動機架覆であることが100パーセント確定します。

 誉について、世傑では秋本実氏が「こうした傑作を生みだした中島の技術陣の功績は高く評価されるべきである」と結んでいます。雑誌航空ファンと世傑編集部には、この大発見を知らせて1週間たちますが、何の動きもありません。よほどお忙しいのでしょうね。

日替わりメモ2012/02/13

にがうりさんの判読では、「誉 枕」ではなく「誉 航」であろうと。なるほどです。

日替わりメモ2012/03/31

〇 彩雲発動機架覆 その後の情報

 航空ファン、モデルアートに続いて、中日新聞と信濃毎日新聞が飯田市の彩雲発動機架覆大発見を報じました。そうしたら同市内から2個目の現物が現れました。こっちも、何物かが分らず鶏小屋などにしていたみたいです。

 中日新聞は、愛知県半田市の中島飛行機半田製作所(現在は輸送機工業株式会社)が、彩雲を400機生産したと書いており、これを読んだ輸送機工業株式会社がぜひ引き取って社内に展示したいとの意向を示しているそうです。 注:日本航空機総集での彩雲生産数は小泉19機、半田379機、計398機

 これらのことから類推するに、飯田市に疎開した豊川海軍工廠が中島飛行機半田製作所に協力して、何らか彩雲に関係する作業を行っていた可能性がでてきましたね。インターネットとともに新聞の波及効果で、更に新たな発見や証言が出てくることを大いに期待しましょう。

 なお、中日新聞記事については、零戦談話室をご覧ください。保管してきた三浦さんが実物のそばに立っている写真で、改めてその大きさを実感できます。 

 

日替わりメモ2012/03/22

〇  アッという間に正体判明‥ というのは、航空ファン5月号 ”中島「彩雲」の発動機架覆見つかる!!”という2ページにわたる記事の中の小見出しです。その一節を文林堂の許可を得てご覧に入れます。全体を読みたい人は、書店で1300円ほどの投資を!

 インターネット航空雑誌「ヒコーキ雲」の名前が出たことに喜びを感じますが、同時に、この記事は彩雲発動機架覆の大発見の経緯とともに次の二つのポイントに注目して頂きたいです。

@ 信頼できるサイトとマニアは互いに協力すべきであること
  最初の三浦さんからの相談は、通常なら当方のサイトに載せるべきなのですが、編集者の長い経験から当サイトよりも零戦談話室の方が適切であると判断しました。それが見事的中したわけで、メンツや独善を捨てて、信頼できるサイトやマニアと協力すべきは協力すべ しという姿勢がインターネットの即時性・多面性効果を120%引出したのでした。

A 航空雑誌に珍しくマニアのインターネットサイトが取り上げられたこと
  日本の航空界において、インターネットの航空個人サイトは市民権を得ているでしょうか。残念ながらノーです。もはや書籍類を凌駕するほどの汎ワールドの量と質とスピードを有するに至っているのに、出版界を含む航空関係企業 ・団体の殆んどが無視を決め込んでいます。
 そういう中で、航空ファン誌がインターネット航空雑誌ヒコーキ雲と零戦談話室の固有名詞を掲げてくれたことは、雲を突き抜ける気がします。お礼を言いたいです。

 この二つのことを通じて、パソコンで情報を発受信しているマニアが胸襟を開いて協力し合うことの重要性を痛感します。すべての航空関係者が航空個人サイトに市民権を与えてくれるように。

 もっとも、当てつけや中傷をする心の狭い人間もおりますが、そんなヤカラを相手にする必要がないこと、当方の日々の更新を見て分って頂いております

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日替わりメモ2012/03/31

〇 彩雲発動機架覆 その後の情報

 航空ファン、モデルアートに続いて、中日新聞と信濃毎日新聞が飯田市の彩雲発動機架覆大発見を報じました。そうしたら同市内から2個目の現物が現れました。こっちも、何物かが分らず鶏小屋などにしていたみたいです。

 中日新聞は、愛知県半田市の中島飛行機半田製作所(現在は輸送機工業株式会社)が、彩雲を400機生産したと書いており、これを読んだ輸送機工業株式会社がぜひ引き取って社内に展示したいとの意向を示しているそうです。 注:日本航空機総集での彩雲生産数は小泉19機、半田379機、計398機

 これらのことから類推するに、飯田市に疎開した豊川海軍工廠が中島飛行機半田製作所に協力して、何らか彩雲に関係する作業を行っていた可能性がでてきましたね。インターネットとともに新聞の波及効果で、更に新たな発見や証言が出てくることを大いに期待しましょう。

 なお、中日新聞記事については、零戦談話室をご覧ください。保管してきた三浦さんが実物のそばに立っている写真で、改めてその大きさを実感できます。 

 

日替わりメモ2012/04/28

 彩雲発動機架覆の行先決まる

 世紀の大発見となった彩雲の発動機架覆がしかるべき所に収められることになりました。

 中日新聞がずっと経過を追っているのでご存知の方もいると思いますが、行先は、半田市の輸送機工業 http://www.yusoki.co.jp/ です。

 戦中に中島飛行機半田製作所として彩雲を製造した会社であり、発動機架覆は飯田市内のどこかで作られ、列車で半田工場へ運ばれていたそうです。赤ペンキで書かれている誉・航(又は枕)・100という文字を記憶しているご老人もいるそうで、数字は製造番号ですが、作業員は何の部品を作っているのか知らなかったそうです。

 輸送機工業では、唯一の彩雲遺品として大切に扱ってくれるでしょう。
常時の公開はしないとのことで、公的施設などでの展示会等ではお目にかかれるかもしれません。 

4 輸送機工業株式会社に納まる  三浦啓祐さんからお便り  


  2012年5月30日に、父と二人で輸送機工業さんに納品して来ました。 

 運搬の軽トラックは富士重工製スバルサンバーの最終生産の限定車を用意する周到ぶり。親会社の富士重工本社の意向も入っているようです。

 道中は何事も無く快適に。地元TV局が半田市まで同行する始末・・・。

 時間ほど走って到着した輸送機工業では、代表取締役社長以下、数多くの幹部の方々と従業員の方、そのOB、半田市半田博物館館長、および半田市の郷土史研究会の方々も出迎えていただき、恐縮しました。

 すでに図面寸法から割り出した専用の架台が製作されており、そこにすぐ載せました。このまま、周囲にアクリルパネルを取り付け、博物館での展示に使えるように設計されたそうです。こういうのは輸送機工業のお手の物ですよね。

 この後、「受取り式」式典まで開かれ、大変丁重に受け取っていただき、寄贈や管理に関する覚書まで用意されていました。もう、安心です。

 輸送機工業では、まず社内(もちろん富士重工本社と連携)で研究、調査し、その後、一般展示されるようです。航空機としての研究、歴史遺産としての研究、両方の観点でとらえることが出来る、そういった場所に納める事が出来たのではないかと考えています。

 以上、報告いたします。 (以下写真は、許可を得て三浦さんのブログから転記)
 


富士重工製スバルサンバー最終生産車に積み込み


輸送機工業ではピタリと納まる専用架台が製作されていた テレビ局も密着取材


盛大な受取式を挙行  輸送機工業(旧中島飛行機半田製作所)の社をあげての感動が伺えます

 

 

5

5 三色ボールペンによみがえる 輸送機工業株式会社より

 彩雲発動機架覆の里帰りを記念してボールペンをつくりました。当社の女子職員がデザインしました。



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